雨の住所を読む

 綾乃は、深夜の配車室で住所を読む。

 町名、番地、建物名。無線から届く声を聞き、画面へ入力し、近い車へ送る。雨の夜は依頼が途切れず、プリンターが細い紙を吐き、壁の時計の秒針だけが同じ速さで進んだ。

 午前三時十分、ようやく休憩室へ入った。

 蛍光灯は一つだけ点き、空調の風がカーテンをわずかに膨らませている。窓の外では、待機中のタクシーのワイパーが右へ左へ動いていた。車ごとに速さが違い、いくつもの小さな雨のリズムが並んでいる。

 綾乃はカップスープへ湯を注いだ。粉が渦になり、中央へ沈む。

 スマートフォンには、昔住んでいた町の地図が開いたままだった。先週、元恋人が引っ越したと共通の知人から聞いた。もう訪ねる理由のない住所なのに、検索履歴から消せなかった。

 休憩室の壁には、市内地図が大きく貼られていた。何度も指でなぞられた道だけが薄く光り、工事中の箇所には黄色い付箋が重なっている。綾乃の知らない家も、夜中だけ明るい店も、その紙の上では同じ太さの線につながっていた。自分の部屋も端のほうにある。帰りたいと思えない日でも、帰れる道は消えていない。

 仕事では一晩に何十もの住所を扱う。そこへ人を送り、到着を確認し、次の場所へ進む。けれど自分が帰りたい場所だけは、番地で指定できない。

 休憩室のスピーカーから無線が小さく漏れた。

「四十二号、了解。配車さんも休憩入ってね」

 誰に向けた言葉か分からない。交代者へか、部屋全体へか。綾乃は送信ボタンを押さず、湯気の向こうで少し笑った。

 ワイパーが回る。

 プリンターのローラーが隣室で回る。

 空調がカーテンの裾を押し、戻す。

 スープを半分飲むと、無線から別の住所が聞こえた。知らないマンション、知らない角、知らない誰かの帰り道。

 綾乃はスマートフォンの地図を閉じた。履歴は消さない。ただ、今夜は見なくてよいと思った。

 休憩終了まで一分。カップの底には溶け残った粉が少しあり、スプーンで混ぜると小さな円を描いた。

 配車室へ戻れば、また雨の住所を読む。自分の行き先が決まらない夜でも、声を一つずつ正しい場所へ送ることはできる。

 綾乃はカップを捨て、無線の明かりが点滅する部屋へ戻った。