雨は婚約義務ではない
干上がった噴水の前で、エドリアク公爵は婚約者ルシェニア・オルバレンを民衆へ晒した。
「雨術師の家に生まれながら、祈雨を拒んだ。領民を苦しめる傲慢な女との婚約を破棄する」
空は三十日晴れたまま。人々は雨を待ち、誰かを責めたかった。ルシェニアはその視線を受けても、涙の代わりに乾いた風を吸った。
祈雨は空から水を奪う術ではない。術師の体温と寿命を雲へ変えるため、一度行えば七日寝込み、重ねれば二度と目覚めないこともある。母は三年前、無償の祈雨を繰り返して亡くなった。だから契約へ第一条を入れたのはルシェニア自身だった。
エドリアクはその条項を『大げさな女の保険』と笑い、正式依頼を出さなかった。雨が降らなければ彼女を怠慢と責め、降れば自分の統治の成果にするつもりだったのだ。彼女は母と同じ沈黙だけは選ばなかった。
「祈雨を依頼した書面は、どこにございますか」
「婚約者なら言われずとも働け」
「第一条をご覧ください」
宮廷雨術師ラウレンツが、領地提携を兼ねた婚約契約の原本を差し出した。第一条には、雨術は生命を削るため、書面依頼と対価の提示なしに義務づけてはならないとある。直下の依頼欄は白紙だった。
術式を始める日時も、守るべき休息日も、一文字として書かれていない。契約しなかった者が、履行しなかった罪だけを作っていた。
「依頼も対価もなく、命だけ差し出せと?」
「妻になるなら当然だ!」
その一言で、民衆のざわめきが止まった。
ルシェニアは白紙の欄を指す。
「あなたは一度も雨を求めていません。無料で従わない女を、見せしめにしたかっただけです」
エドリアクは慌てて、今から正式に依頼する、婚約破棄も取り消す、と言った。
彼女は首を振った。
「領民のための雨は呼びます。あなたの所有物としてではなく、術師として契約を結んで」
婚約指輪を空白の依頼欄へ置き、元婚約者へ背を向ける。ラウレンツが雲見台へ続く階段で手を差し出した。ルシェニアは空を選び、その手を取った。