雨より先に開く
二十四歳の石渡多喜の傘立てには、鮮やかな緑の傘が眠っていた。二年前、自分で一目惚れして買った。けれど初めて会社へ持っていった日、先輩に「多喜ちゃんにしては派手」と笑われ、そのまま持ち帰って以来、一度も開いていない。
雨の日は透明なビニール傘を使った。服も紺や灰色を選び、会議では賛成が多そうな案にうなずいた。「意外」と言われるたび、自分から外れたことをしたようで恥ずかしかった。来週の社内提案でも、本当は緑を基調にした包装案を出したい。だが資料には、先輩が好む白い案だけを残していた。緑を選ぶ理由を説明するより、『多喜らしくない』の一言を受けるほうが怖かった。自分らしさを決めたのが誰なのかは、考えないようにした。
夕立の夜、商店街の屋根の下で、水原サチがトランペットを吹いていた。雨粒に負けない明るい音だった。濡れたタイルへ金色の響きが跳ね、店じまいを急ぐ人まで一瞬だけ顔を上げた。多喜は傘の緑とトランペットの金が並ぶのを、落ち着かない気持ちで見た。多喜はたまたま修理店から受け取った緑の傘を抱えていた。布は新品のまま、持ち手だけが少しくすんでいる。
サチが曲の途中で傘を指した。
「その傘、何日くらい晴れを待ってるんですか」
「雨の日に使うものです」
「雨が止んだら、次の角まで開いて歩いてみて」
理由を聞く前に演奏が再開した。やがて夕立は細くなり、商店街の外に薄い夕焼けが見えた。人々は傘を閉じ、濡れた歩道へ出ていく。水たまりには、しまわれた傘の色だけが短く映った。多喜も透明傘なら迷わず閉じただろう。
緑の傘を留める帯に指をかける。開けば、晴れかけた空の下で目立つ。誰かに変だと思われても、先輩はここにいない。それでも先輩の声だけは、傘の内側にまでついてきた。
最後の雨粒が屋根から落ちた。サチの高い音が一つ伸びる。
多喜は傘を開いた。緑色の光が顔へ落ちた。通りすがりの子どもが振り返る。彼女は閉じずに、晴れ始めた歩道へそのまま踏み出した。