雨粒のまま
鳴海史帆は、アカツキ写真館へ一枚の写真を持ち込んだ。母が二十五年前に開いた雑貨店の初日を写したものだ。
土砂降りで、看板は雨ににじみ、店先の鉢植えは倒れかけている。撮影した窓にも水滴がつき、母の顔の上へ丸い影が重なっていた。それでも母は、開けたばかりの扉に手をかけて笑っている。
史帆は地域の店を紹介するウェブマガジンを作っていた。創刊号の公開予定から、もう八か月遅れている。文章を直し、ロゴを変え、協力店が一軒減るたび全体を組み直した。母の店の記事を表紙にするつもりだったが、古い写真の雨粒が気になり、完全に消してから公開しようと考えた。
店主は写真を斜めにし、表面の傷と、撮影時から写っている水滴を見分けた。注文票へ二本の線を引く。〈紙面の傷〉には修復の丸。〈窓の雨粒〉には、何もつけない。
「こっちも消せますか」
店主はできる、という意味でうなずいた。だが修整用の鉛筆を取る代わりに、写真へ透明な枠を重ねた。雨粒まで含めると母の手と扉が中央に来る。雨を避けて切り取れば、笑顔だけが大きくなる代わりに、開いた扉が半分消えた。
史帆は、晴れた開店日に作り替えた写真を想像した。きれいではある。けれど母が何度も話したのは、「最初の日は誰も来なかった」ことだった。夕方、濡れた制服の学生が一人、鉛筆を買いに入ってきた。それで店を閉めずに済んだ、と笑っていた。
「傷だけ直して、雨はそのままで」
店主は注文票の空欄へ〈天候・保持〉と書いた。会計後、写真を水に強い蝋引き紙で包み、赤い紐を一周だけ巻く。晴れを装う包装ではなかった。
史帆は店の片隅でノートパソコンを開いた。公開前チェックには、未完了の項目が七つある。記事の誤字だけを直し、ロゴの微調整と写真の差し替えを次回へ移した。
表紙画像には、雨粒の残る写真を設定する。
〈創刊号を公開する〉
ボタンを押した瞬間、完璧になったものは何もなかった。閲覧数もゼロのままだった。ただ、公開日の欄に今日の日付が入った。
写真の母は、雨が止むのを待たずに扉を開けていた。