雪が埋める足跡
山小屋の前に、亡くなった夫の足跡が現れた。
十年前、冬山で行方不明になり、春に遺体が見つかった。
妻はその山小屋へ住み続け、毎年捜索の日と同じ朝に雪をかいた。
足跡は玄関から森へ向かっている。
新しい雪が跡を埋めるまで、夫はその先を歩けた。
「ついてくる?」
夫は若いまま振り返った。
妻は長靴を履き、足跡を踏まないよう隣を歩いた。
夫は、町の変化を聞いた。
娘が結婚し、孫が生まれた。
妻は一度も会いに行っていない。山小屋を空ければ、夫が帰ってきたとき困ると思ったからだ。
「遺体を見たでしょう」
「見つかった体と、帰ってくるあなたは別」
「ずいぶん都合がいい」
腹が立った。
十年待った人へ言う言葉ではない。
森の奥に、夫が事故前に作った小さな標識が残っていた。
矢印は町と反対を向いている。
夫は遭難者が山小屋へ戻れるよう付けたという。
「心残りは、これ?」
「お前が逆向きに読んだこと」
妻は、標識を夫が帰る目印だと思い、毎年直していた。
本当は迷った人を家へ返す矢印だった。
雪が強くなり、後ろの足跡から埋まっていく。
「娘が、町へ来てって言ってる」
妻は初めて口にした。
山小屋を売り、近くに住んでほしいと何度も頼まれている。
「行けばいい」
「ここを捨てるの?」
「家は、帰る人がいる方へ動いてもいい」
夫は立ち止まった。
妻は、あの日の朝に言えなかったことを謝った。
吹雪の予報を見て、行かないでと言いたかった。
山を仕事にする夫へ口を出すのが怖く、
「早く帰って」
とだけ言った。
「聞こえてた」
「帰らなかった」
「帰れなかった」
夫は穏やかに言った。
その違いを、妻は十年かけても認められなかった。
雪が夫の靴まで埋める。
「孫に、山の話をして」
「あなたの?」
「失敗した話も」
夫は標識を町の方向へ回した。
「今度は、そっちが帰る番」
姿が雪へ溶けた。
春、妻は山小屋を手放した。
標識だけは残し、登山者が使える休憩所として新しい持ち主へ託した。
町へ移った初日、孫が玄関に小さな靴跡を付けた。
妻は拭こうとして、しばらく残した。
待つための足跡ではない。
帰ってきた人が、ここにいると分かる跡だった。