雪眼鏡の撮影日

映像制作会社の氷室燕は、屋内でもスキーゴーグルを頭に載せている。

アロハシャツの上に白いダウンジャケット。真夏のスタジオで汗一つかかず、危険箇所を見つけるたび言う。

「見えている危険は止められる」

助監督の榊原実栗が相談したのは、若手俳優の密着映像だった。長時間撮影の途中、俳優が過呼吸を起こし、控室へ逃げ込んだ。監督はカメラを止めなかった。

『弱さも含めて本物だ。契約にも密着とある』

実栗はレンズの前へ立てなかった。代わりに燕を呼び、判断を求めた。

「撮れば作品になる。止めれば違約になるかもしれません」

「で、君はどうしたい」

「止めたいです」

「なら、相談は許可を取るためじゃないな」

燕はゴーグルを目へ下ろし、そのままカメラの真正面へ歩いた。鏡面レンズいっぱいに照明が反射し、映像は白く潰れる。

「安全確認。全機材停止」

監督が怒鳴ると、燕は契約書の安全条項を読み上げた。密着は、同意を撤回できないという意味ではない。撮影中止の責任は制作管理者である自分が負うと言い切った。

俳優が落ち着いた後、燕は撮り直しを提案した。顔は映さない。本人が後日選んだ言葉と、衣装の袖を握る手だけを撮る。使うかどうかも本人が決める。

完成版には、過呼吸の映像は一秒もなかった。公開前、俳優本人が編集室へ来て、使うカットへ一つずつ印を付けた。燕は隣にいたが、承認を急かす言葉を一度も挟まない。実栗は撮影停止の時刻と理由を制作日誌へ残した。燕の名だけでなく、自分の判断として書く。盾の後ろに隠れたままでは、次に一人で立てないと分かったからだ。

それでも、弱さを隠した作品には見えなかった。自分で話す時間を選んだ人の強さが残った。

撮影後、燕はゴーグルを実栗へ渡した。

「私は雪山へ行かないので、飾りだと思っていました」

「飾りだよ。ただし、レンズの前に立つと邪魔になる」

いつも変人の印だった雪眼鏡は、見たくないものを避ける道具ではなかった。見せてはいけないものを隠す盾だった。

「見えている危険は止められる。次は私を呼ぶ前に、君が画面を白くしろ」

実栗はゴーグルを頭へ載せた。少し重い。けれど、立つ場所ははっきりした。