霜の匂い
糸魚川澪子は、葡萄の色を見なかった。
房ごとに糖度を測り、葉の裏を触り、風が止まる時刻を書き留める。色覚に頼らない代わりに、果皮の張り、種の硬さ、斜面ごとの温度差を十年分記録していた。
鳩山農園主は、その姿を見て言った。
「数字がなければ熟れ具合も分からないのか。畑の勘がない人間は、何年いても使えない」
収穫祭の前夜、澪子は東斜面の葡萄だけを摘み始めた。
空は晴れ、予報の最低気温は五度。霜の心配はない。
「勝手に収穫するな」
鳩山が作業灯を消した。
澪子は谷底の温度計を見せた。
十分で二度下がっている。山の上は暖かいまま。冷気が斜面を流れ落ち、東側の窪みにたまる放射冷却の形だった。
「予報より自分が正しいと言うのか」
「この畑の高さは、観測点より百八十メートル低いです」
鳩山は収穫を中止させ、澪子を倉庫番へ回した。
澪子は規程で許された試験区画の三列だけ、規程に従って仲間と摘み切った。房は区画ごとに分け、収穫時刻と糖度を札に残した。残りには防霜ファンを向けようとしたが、鳩山は祭り用の発電機が汚れると言って燃料の使用も止めた。
夜明け前、白い霜が東斜面を覆った。
鳩山が走ってきたとき、残された房は硬く凍り、触れただけで皮が割れた。西側の畑が無事だったため、地域全体の霜ではなく地形を読んだ予測だったことも明らかになった。
試験区画の三列分だけが、倉庫で無事だった。
しかも、澪子が測った糖度は最高値に達していた。試験醸造に必要な量には足りる。昨夜の判断がなければ、新しいワイン計画そのものが消えていた。
その朝、買い付けに来た醸造組合の検査員・桑名が記録を見た。
温度、風向、収穫時刻。すべてが霜の発生を先に示している。
鳩山は「誰でも偶然当たる」と言った。
桑名は首を振った。
「三年前から同じ記録を組合へ提出しているのは、糸魚川さんだけです。昨年の被害予測も一致しています」
組合は新しい共同畑の運営契約を開いた。
栽培責任者の署名欄に、桑名が澪子の名を記した。