霧の中の時刻

犬飼雅臣は、山岳用品メーカーのテスト担当だった。新型GPS時計の耐寒試験で入った停見山には、霧に関する言い伝えがある。

《霧の中で時刻を確かめてはいけない》

現地協力者はそれだけ言い、禁足尾根の手前で帰った。尾根の道標には距離ではなく《昨日》《今日》《まだ》と刻まれ、霧が濃くなるほど腕時計の秒針だけが大きな音を立てた。

試験チャット

16:07 雅臣:視界二十メートル

16:19 本社:電池残量は?

16:20 雅臣:霧が出た。下山開始

16:?? 本社:時刻表示が欠落しています

時計が振動したので、雅臣は反射的に文字盤を一度だけ見た。

《25:61》

本社とのチャットには、雅臣がまだ送っていない返信が先に並んだ。《時計を見るな》《もう見た》《次は窓を見る》の三行。削除しようとすると、その時刻だけ一秒若返り、手の甲にあった小さな傷が消えた。

ありえない時刻の下で、秒が逆回転していた。霧の中から駅の発車メロディー、学校のチャイム、会社の始業ベルが順番に聞こえた。すべて雅臣が過去に遅刻した日の音だった。

彼は時計を外して投げた。霧の向こうで何十個もの時計が落ちる音が返り、どれも違う年代のアラームを鳴らした。だが手首には白い表示だけが残り、皮膚の下で25:60、25:59と減っていった。

麓へ出ると表示は消えた。本社では連絡が二時間途絶えただけになっていた。回収したログは破損し、テストは中止された。

その晩、スマートフォンの時計に新しい都市が自動追加された。

東京 22:14

ロンドン 13:14

停見山 25:47

削除しても戻る。停見山の時刻だけ逆に進み、日付は二十三年前だった。翌朝、会社の勤怠アプリから警告が届いた。

《退勤処理が完了していません》

《勤務開始日:二十三年前の本日》

雅臣が修正申請を押すと、理由欄に文字が自動入力された。

《まだ下山していないため》

スマートフォンのアラームが鳴った。設定した覚えのない名前は《霧が晴れる時刻》。画面には残り一秒。

ゼロになっても音は止まらず、部屋の窓が白く曇った。

通知が切り替わる。

《アラーム「下山」は二十三年前に鳴りました》

玄関の外から、若い自分の声が「遅刻するぞ」と呼んだ。