霧の救難信号
濃霧の海でエンジンが止まり、私は救難信号を送った。
小さなヨットは潮に流され、岩礁の警報だけが遠くで鳴っている。十分後、無線から落ち着いた声が返った。
『こちら沿岸救助局。灯台の信号に従ってください』
声は私の安否より先に、積み荷と撮影機材の有無を尋ねた。遭難記録に必要だと言う。私はカメラを防水箱へ隠し、「何もない」と答えた。
闇の中で白い灯が三回、赤い灯が一回点滅した。声の指示どおり舵を切ると、波が穏やかになった。
助かったと思った。
しかし海図では、救助局の呼出符号は昨年変更されていた。無線の声が名乗ったのは、廃止された古い符号だった。
霧笛もおかしい。海図に記された周期は二十秒なのに、聞こえる音は十五秒ごと。しかも毎回、最後に短い金属音が混じる。
『安全水路へ入りました。そのまま直進』
私は航海計器を見た。船首は港ではなく、立入禁止の断崖へ向いている。
「位置を再確認してくれ」
『霧で衛星測位が乱れています。こちらを信じて』
GPSは正常だった。赤い航跡が海図の陸地へ伸びている。無線の声は何度も「停船するな」と命じ、救命胴衣を着ることさえ止めた。岩に引っ掛かる危険があるという、聞いたことのない理由だった。
海図を折り、非常用の発煙筒を握った。すると無線の声が、こちらを見ているように「赤い筒を置け」と命じた。霧の中のどこかに監視艇がいる。
引き返そうとしたとき、後方から低いモーターボートが現れた。二隻がヨットを挟み、舷側へ磁石付きの棒を固定する。操舵が利かなくなった。
白い灯の正体が霧の中から現れた。灯台ではない。岩壁に開いた洞窟の入口へ、作業灯を取り付けてある。
ヨットは棒に引かれ、洞窟へ入った。背後で鉄の網が海へ下りる。
無線の声が近くなった。
『救難者一名、回収完了』
奥の桟橋には、昨日私が海上で撮影した密輸船が停まっていた。男たちはカメラを探しながら、ヨットのハッチへ外から錠を掛ける。
最後に聞こえた霧笛には、やはり金属音が続いた。
洞窟の門が閉じる音だった。
私を安全水路へ導いた信号は、海から出られない港の入港案内だった。