音だけの三十歩

監察聴聞室には、記者席が六つ用意されていた。

鹿取奈津監察官は、証言台の沢木巡査を見た。留置人を地下倉庫へ連れ込み、暴行した疑い。沢木は、ボディーカメラが廊下で壁に当たり、その場で壊れたと説明している。映像は残らず、本体は分解廃棄された。

「故障後、あなたはどこへ行きましたか」

「留置人を医務室へ連れていきました」

「地下倉庫には入っていない?」

「はい」

後方で鍋島監察部長が咳払いした。聴聞は形だけで終える約束だった。沢木の班は大規模詐欺事件の情報源を抱え、処分すれば捜査が止まる。奈津には、機器故障を認める結論文まで渡されている。

「では、音声を確認します」

沢木の顔が初めて動いた。

ボディーカメラには、録画開始前の三十秒を一時保存する機能がある。通常は映像と一緒に上書きされるが、故障診断領域から音声だけが回収された。再生すると、靴音が始まった。

一歩、二歩。硬い廊下。

十三歩目で鉄扉が鳴る。十五歩目から反響が狭くなる。二十八歩目で鍵。三十歩目のあと、沢木の声が入った。

――ここならカメラは死んでる。やれ。

続いて、別の男の声。

――部長には俺から言う。

鍋島が立ち上がった。

「非公開資料だ。記者の前で流す許可はしていない」

奈津は停止ボタンへ指を置いたまま、沢木に尋ねた。

「二人目は誰ですか」

「雑音です」

「あなたは『はい』と答えています」

「そんな音、加工できる」

鍋島がマイクを切った。室内のスピーカーは沈黙したが、再生機は動き続けている。波形には、暴行の音と、その回数を数える声が続いていた。

「ここで止めろ」

鍋島は奈津の耳元で言った。

「公開すれば、お前も機密漏えいだ。監察が組織を壊してどうする」

奈津は、聴聞記録の結論欄を見た。「機器故障により事実認定不能」。署名すれば、三十歩はなかったことになる。

彼女は停止ボタンから指を離した。

代わりに、予備出力のケーブルを記者席側のスピーカーへ差し替える。切られていた音が戻り、二人目の声が室内へ響いた。

奈津は録音の続きへ向けて、再生ボタンを押した。