魔獣美容室の噛み痕
魔獣美容室《ふわ角》で、侯爵夫人ヘルミナの白狼が美容師フラウの腕へ噛みついた。
血がにじむ。
「まあ、うちの子を怒らせるなんて最低の店ね」
夫人は狼を撫でるどころか、満足そうに扇を開いた。
「治療費など払わないわ。逆に精神的苦痛の慰謝料を出しなさい。この店も侯爵家の犬舎にする」
白狼は震え、フラウの足元へ身を寄せた。
「事故確認のため、指示首輪をお預かりします」
「勝手に触らないで。噛んだのはあなたの技術不足よ」
フラウが免責票を出すと、ヘルミナは〈施術者が耳を切り、魔獣が防衛した〉と書き、香水のついた署名をした。
「衛兵を呼んで、この女を動物虐待で捕らえなさい」
フラウは自分の傷より先に、白狼の首輪を台へ置いた。
青い石から夫人の声が流れる。
『噛みなさい、ノクス。血が出るまで』
続いて、狼がためらう唸り声。
『命令よ。噛めば店を奪える。役立たずなら保健所へ送るわ』
指示首輪は、飼い主の命令で魔獣が事故を起こした際、原因を判定するため直前三分を保存する。登録者の魔力はヘルミナ本人だった。
「首輪を偽造したのね!」
「免責票の裏に、首輪記録の提出同意があります」
「平民の紙切れが侯爵家に通用するとでも?」
白狼が夫人から離れ、フラウの背後へ隠れた。耳に切り傷はなく、毛を整えた跡だけがある。
入口から王立魔獣保護官が入ってきた。夫人が「衛兵を呼べ」と叫んだため、店の緊急水晶が最寄りの保護局へ自動接続していたのだ。
「その獣は私の財産よ!」
「登録法では、命令による攻撃と遺棄の脅迫は飼育権取消事由です」
白狼はその言葉を理解したように、初めて尾を一度だけ振った。店にいた小型魔獣たちも、張りつめていた息を一斉に吐く。
保護官は首輪記録を封印し、署名済み免責票を受け取った。
ヘルミナが扇を振り上げた瞬間、白狼はフラウの手をそっと舐めた。
保護官は処分書を開いた。
「ヘルミナ侯爵夫人に全魔獣の飼育権剥奪、および傷害教唆・恐喝容疑による拘束命令を告知します」