黒い線まで
柞原奈帆は珈琲店「北窓」で、休日出勤の依頼を開いていた。
先週の日曜、奈帆は洗濯機が止まるのを待つ間にも会社の表を直した。終わってみれば外は暗く、冷蔵庫には朝の飲みかけしかなかった。それでも月曜には、休めたことにして出勤した。
上司の画面では、奈帆の予定は空欄に見えるだろう。空欄は、誰かが勝手に使ってよい場所ではなかった。
今月に入って三度目だった。断れば同僚へ回る。だから奈帆は毎回、〈対応可能です〉と返してきた。土曜に予約した歯科も、友人との約束も、眠る時間も、先に削れば仕事は入った。
店主が出した生成りのカップには、内側を一周する黒い線があった。模様ではなく、手で引いたような不揃いな線だ。
店主は細口のポットからコーヒーを注いだ。液面が黒い線へ届くと、まだカップに余裕があるのに、ぴたりと手を止めた。ポットには残りがある。奈帆は無意識に、もう少し入れてほしいと思った。
けれど店主は縁まで満たさなかった。線の上には、湯気がたまるだけの空間が残った。
奈帆が飲み終えるころ、店主はお代わりのポットを持ってきた。空になった分を注ぐのではなく、カップを洗い、また同じ黒い線まで新しく満たした。足せるから足すのではない。一杯ごとの終わりが決まっていた。
休日出勤の画面には、上司から追伸が来ていた。〈奈帆さんなら早いので助かります〉。
褒め言葉に見えるその一文で、断りにくさが増した。奈帆はいつもの返事を打ち、黒い線の少し上に残る白い余白を見る。
全文を消した。
〈今週末は対応できません。月曜午前であれば着手できます〉
理由を書こうとして、やめた。歯科も睡眠も、許可を取るための証明ではない。
会計で、店主は伝票の合計欄へ一本の線を引いた。追加注文を書き込める余白はあったが、金額はそこで閉じられた。
奈帆は返信を送った。すぐに既読がつき、指先が冷たくなる。それでも取り消さなかった。
店主がカップを洗うと、内側の黒い線がまた現れた。奈帆は土曜の予定表から「仮」を外し、歯科の予約を確定した。