黒曜の祭刀
湖上都市の大神殿で、祭司将テオチトルは黒曜石の刀を火へかざした。
刃は煙を映さず、夜そのもののように黒い。
戦王アカマピルが祭壇の前へ捕虜を蹴り出した。十二歳ほどの少年だった。明朝の出陣前、心臓を太陽へ捧げ、その血で黒鷲旗を染める。旗が上がれば、二万の戦士が西の堤道へ出る。
その堤道の下には、敵が杭を切って待っていた。軍が半ばまで進めば橋は崩れ、湖へ落ちる。
テオチトルはそれを知っている。
敵将から聞いたのではない。自分で見た。夕方、葦舟に乗って杭を確かめた。王へ報告すると、アカマピルは笑った。
「二万のうち一万が渡れば勝てる。落ちる一万には、名誉を与えよ」
名誉は、死者へ払う最も安い報酬だった。
「始めろ」と王が命じた。
少年が震えている。祭壇の脇には、黒鷲旗が丸めて置かれていた。生贄の血がつかなければ、旗を掲げてはならない。それが都市の掟だ。
テオチトルは少年の胸へ刃を当てた。
王の護衛が見守る。ここで少年を逃がしても、すぐ斬られる。王を刺しても、別の祭司が儀式を続ける。
必要なのは、人ではなく掟を殺すことだった。
テオチトルは刀を引き、左の掌を浅く切った。自分の血を刃へ流し、そのまま黒鷲旗の結び紐を断つ。
旗布が石床へ広がった。
アカマピルの顔がゆがむ。
「何をした」
「祭司の血で旗を汚しました」
「洗え」
「太陽へ捧げられた刃で祭具を切った。今季、この旗は二度と上げられません」
それは嘘だった。そんな掟はない。
だが、護衛たちは互いの顔を見た。王は神を恐れない。神を恐れない王に仕える兵ほど、神罰を恐れる。
アカマピルが少年の髪をつかんだ。
「別の旗を持て!」
「どの旗にも、私が同じ禁を告げます」
「反逆者!」
王の棍棒がテオチトルの肩を砕いた。彼は膝をついたが、刀を離さなかった。
神殿下の広場では、兵が黒鷲旗を待っている。代わりに、テオチトルの弟子が白い羽束を掲げた。出陣中止ではない。西の堤門を開き、民を逃がす合図だ。
黒鷲旗が石床に伏したまま、西の堤門が湖上へ開いた。