黒板の進路希望
旧校舎の三年五組には、同窓会用の丸椅子が三十脚並んでいた。宴会が終わると、桑原杏、近江拓郎、新田佳南だけが教室に残った。
黒板の隅に、誰かが白いチョークで〈十七歳の進路希望〉と書いている。机の上には卒業時のアンケートのコピーが置かれていた。
杏の欄は〈大学病院の医師〉。拓郎は〈世界を回る商社マン〉。佳南は〈家業を継ぐ〉。
「先生、性格悪いね」と杏が笑った。
彼女は大学病院の外科医になった。けれど春から離島の診療所へ移る。手術件数も肩書も減るが、患者の名前を覚えられる場所で働きたいという。
拓郎は海外赴任を重ねた末、会社を辞める。地元で外国人労働者向けの日本語教室を始める予定だった。
「世界を回るの、疲れた?」
「世界の方がこっちへ来た」
佳南は老舗の和菓子店を継いだが、来月、店を閉める。借金を返したあと、職業訓練校で溶接を学ぶという。
「一人だけ、希望どおりだったのに」と杏。
「希望どおりに十五年やった。だから、もう十分」
三人はアンケートを黒板へ磁石で留めた。十七歳の字は強く、迷いがなかった。あのころは、進路を選ぶことより、選んだと言い切ることが大人になる条件だと思っていた。三者面談の前日、三人は互いの用紙を見せ合い、弱気な言葉を消しゴムで消した。残ったのは、本音より発表しやすい夢だった。
拓郎がチョークを持ち、昔の希望から現在へ線を引いた。杏の線は島へ、拓郎の線は故郷へ、佳南の線は見知らぬ工場へ曲がった。
「交わらないね」と佳南。
「昔から同じ道じゃなかった」と杏。
「同じ教室にいただけか」
退館放送が鳴った。三人は椅子を片付け、アンケートを外した。佳南が黒板消しを手にしたが、三本の線だけは消さなかった。
翌日、清掃員は進路希望の文字を拭き取った。けれど強く押しつけられたチョークの跡は薄く残り、三本の線は教室の端でそれぞれ別の壁へ消えていた。
新学期、その黒板を使う生徒たちは、なぜ白い筋が交わらないのか知らなかった。