最初の入館は事故の後
峰岸化工の安全統括責任者選任面談で、瀬尾智紀は役員席の中央に座っていた。
彼の最大の実績は、前職の工場で起きた薬品漏れ事故の収束だった。履歴書には〈現場指揮官として四十八時間で操業再開〉。事故対応の講演動画まであり、瀬尾は図を使って判断の速さを説明した。動画は二週間前に公開されたばかりで、社内でも高く評価されていた。
委員席には、承認印を押した決議書が回っていた。選任委員の小田切が尋ねた。
「事故当日の入館時刻は覚えていますか」
「午前五時十二分です。警報より先に異臭へ気づきました」
「よく覚えていますね」
委員たちは感心していた。小田切だけが、手元の入館一覧と時刻を見比べていた。
「人生で忘れられない日ですから」
小田切は、昨年買収した前職工場の入退館記録を表示した。瀬尾の社員番号で最初に門を通ったのは、事故から四か月後の午前八時五十六分。事故当日どころか、その時点では社員番号自体が発行されていなかった。
瀬尾は顔色を変えずに答えた。「外部顧問として入ったので、当時は来客証でした」。用意していた答えのように速かった。
会議室予約の来訪者台帳が開かれた。事故発生から一週間の来客は消防、保健所、設備会社だけ。瀬尾の氏名も所属会社もない。
「私は電話で指揮しました。現場にいたと書いたのは、説明を簡潔にするためです」
「午前五時十二分に異臭へ気づいたという話は?」
「現場責任者から聞いたことを、一人称で話しただけです」
小田切は事故対策フォルダのアクセス履歴を示した。瀬尾が初めて報告書を開いたのは、この選任面談の案内が出た翌日。閲覧順は、事故概要、時系列、現場責任者の証言、講演用写真。動画で話した内容と同じ順番だった。
最後に、緊急連絡メールのCC一覧が映る。瀬尾の名はない。代わりに、現在は別部署にいる本当の現場指揮官の名が、最初から最後まで残っていた。
委員長は、選任決議書から瀬尾の氏名を削除した。
「安全統括責任者への選任は撤回します。虚偽申告の調査を開始します」