『返信先は存在しない』

退職面談で、砂川怜奈は三通の匿名苦情を理由に自主退職を迫られていた。

〈砂川に皆の前で無能と言われた〉

〈休日にも連絡を強要された〉

〈相談したら契約を切ると脅された〉

上司の江波戸昴は、残念そうに退職届を差し出した。

「複数の証言がある。君が自分から辞める形なら、次の転職にも響かない」

人事の伊丹浩平は、匿名メールのヘッダーを確認した。

三通とも返信先が〈voice-team@社内〉になっている。しかし、その配布リストは存在しなかった。

「削除されたんです」

伊丹が復元すると、作成者は江波戸。登録された受信者も江波戸一人だった。三通は別人を装っていたが、送信時刻は一分間隔で、同じ下書きテンプレートから複製されている。

江波戸は「被害者の代筆をした」と言った。

「では被害者は誰ですか」

「匿名性を守る」

伊丹はメール保存庫から、テンプレートを送った元メールを出した。宛先は、すでに契約終了した三人。本文には〈署名不要。この文面で送れば最終給与に調整金を加える〉とある。CCは江波戸の私用アドレスだった。三人はいずれも返信せず、苦情は江波戸自身が社内配布リストから送っていた。

砂川は静かに尋ねた。

「私が匿名で経費の水増しを通報したと、いつ分かったんですか」

江波戸の顔が動いた。

先月の匿名通報番号を、江波戸は部内メールに誤って貼りつけていた。閲覧権限がないはずの番号だった。砂川の会議室予約と照合し、通報者を推測して報復したのだ。

伊丹は退職届を砂川の側へ押し戻した。

「この届は受理しません。砂川さんには現職継続か、監査部への異動を選んでいただきます」

そして江波戸へ告げた。

「返信先はなくても、送信元は残ります。あなたの管理職権限を停止します」

伊丹は三人の元契約社員とも、その場で記録付きの通話をつないだ。全員が苦情を依頼され、断ったと答えた。調整金も受け取っていない。江波戸は、文面を作っただけで送信操作は秘書だと言ったが、秘書はその日休暇で、入館記録もなかった。砂川の経費通報に添付された領収書と、江波戸が削除した請求書の番号も一致した。報復の理由まで、消し残した数字が説明していた。

退職面談は、残る人と去る人を入れ替えて終わった。