いいえを守る金の指輪
「この婚姻契約は、王命により成立する」
大広間で宣言され、フィオレの左手へ魔法の鎖が巻きついた。
相手は国王の甥。彼は式の直前、フィオレの侍女を解雇し、蔵書を処分し、結婚後は手紙を検閲すると当然のように告げた。三度断っても、父は「家のため」と署名し、司祭は本人の同意欄を空白のまま祝福を始めた。契約魔法は式が終われば、妻が夫の命令へ逆らえなくなる。
フィオレは泣かなかった。
成人の日に一度だけ使える確定SSR指輪箱を、右手で開く。必要なのは、より強い男の庇護ではない。自分の「いいえ」を、王命より強くするもの。
箱に入っていたのは、飾りのない金の指輪だった。
《自由意思の環》
装着者が自ら受け入れていない契約を、一度だけ本人の言葉で無効にする。
彼女は右手の人差し指にはめた。
司祭が誓約文を読み上げる。
「汝、アルセドを夫とし――」
「いいえ」
小さな声だった。
だが金の指輪が鳴り、左手の鎖に亀裂が走る。父の署名が契約書から剥がれ、国王の印章が砕け、司祭の祝福は白い煙となって消えた。
婚約者が腕を掴もうとする。
「王家への反逆だ!」
「触れないでください」
大広間の全員が、最初の拒絶を聞いていた。二度目の言葉に魔法は要らなかった。近衛兵が彼の手を止める。王国法には、無効になった婚姻の当事者へ強制接触してはならないと明記されていた。
国王が顔をしかめる。
「では誰と結婚するつもりだ」
フィオレは、用意されていた花束を卓上へ置いた。
「今日は、誰とも。私の人生は空席ではありません」
父が家名を失うぞと叫んだが、フィオレは振り返らない。彼女は一人で赤い絨毯を逆向きに歩く。傍聴していた令嬢たちが次々に立ち上がり、同意欄のない自分の契約書を司祭へ返した。紙が卓に重なる音は、拍手より静かで、ずっと重かった。
大扉を開けると、外の風が頬を撫でた。
右手の金環に、使用後初めて深紅の紋章が浮かぶ。
《SSR〈自由意思の環〉――王命級強制契約の破棄に成功。世界初の自己選択権完全行使を記録》