ため息は一匹分

 樽見昌吾は、会社でため息をつかないようにしていた。

 課長がため息をつくと部下が萎縮する、と研修で言われたからだ。納期が縮んでも、上司が数字だけを見ても、笑って「分かりました」と答える。

 その分、帰宅して玄関を閉めると、まとめて長く息を吐いた。

 ある晩、駐車場の車止めの陰から、もっと大きなため息が聞こえた。

 見ると、茶色い老猫が伏せていた。片耳が折れ、頬の毛は白い。昌吾が近づくと、猫は「ふう」と鼻を鳴らした。

「お前もか」

 思わず隣にしゃがんだ。

 首輪はなく、痩せていた。保護して病院へ連れていくと、十歳は超えているだろうと言われた。

 仮の名は「ため息」。獣医師には変な顔をされたが、本人は気にしなかった。

 ため息は、人間の愚痴を聞くのが上手だった。

「部長は簡単に言うんだよ」

「ふう」

「若手には無理させたくない。でも俺が全部持つのも違うだろ」

「ふう」

「今のは同意か?」

 猫は目を閉じた。

 昌吾は離婚してから、夕飯を立ったまま食べる癖がついていた。流しの前で弁当を開き、五分で済ませる。

 けれどため息は、食卓の椅子へ座らなければ自分の餌を食べなかった。

「なぜ俺待ちなんだ」

 仕方なく向かいへ座ると、ようやく器へ顔を入れる。

 ある夜、昌吾は部下の失敗をかばい、上司から一時間説教された。

 帰るなり床へ寝転ぶと、ため息が胸へ乗った。

「重い」

「ふう」

「俺も重いんだよ」

「ふう」

 同じ呼吸を二度聞いたら、何だか笑えてきた。

 昌吾は起き上がり、冷蔵庫にあった白菜と豚肉を小鍋で煮た。昆布だしの匂いが部屋へ広がる。ため息には温めた寝床を用意した。

 鍋を食べながら、明日は仕事を二つ、部下へ任せようと決めた。助けることと、抱え込むことは同じではない。

 老猫の飼い主は見つからなかった。

 正式に迎えた日、昌吾は新しい赤い首輪をつけた。ため息は嫌そうに首を振り、そのあと膝で丸くなった。

 夜更け、二人ぶんの呼吸が部屋を満たす。

 昌吾が小さく息を吐くと、猫も鼻を鳴らした。どちらの疲れも消えはしない。それでも、白菜の甘い湯気と毛布の匂いの中では、ため息は一人で吐くより少し軽かった。