ひび割れた鏡

初音は鏡を見る時間が短い。妹の杏実は、外へ出る前に髪も眉も確認しないと落ち着かない。共同生活の洗面台には、杏実の化粧品が幅を取り、初音の歯ブラシは隅に追いやられていた。

朝、洗面所から小さな悲鳴がした。鏡の右下にひびが入っていた。昨夜、初音が棚の洗剤を取ろうとして、ボトルを落としたのだとすぐ分かった。

「ごめん。弁償する」

「そういうことじゃない」

杏実は鏡を見たまま言った。

「じゃあ何」

「ここで毎朝、顔を作って出てるの。割れてると、全部割れて見える」

初音には分からなかった。顔を作るという言い方も、鏡一枚で一日が変わる感じも。けれど、分からないから軽く扱っていいわけではない。

修理業者は夕方まで来られないと言った。杏実は午後から面接がある。スーツ姿で洗面台の前に立ち、ひびの入った鏡を見て唇を結んだ。

「駅のトイレで直す」

「落ち着かないでしょ」

「じゃあどうすんの」

初音は自分の部屋から手鏡を持ってきた。小さい。旅行用の、角がはげた鏡だ。杏実は一瞬、頼りない顔をした。初音は何も言わず、洗面台のライトをつけ、自分の両手で鏡を支えた。

「動かさないで」

「うん」

杏実は眉を描き、口紅を塗った。初音の腕はだんだん痛くなったが、下ろさなかった。途中で杏実が「もういい」と言いかけたとき、初音は「まだ左」とだけ言った。

面接に出る前、杏実はその口紅を初音の手に押しつけた。

「明日、姉ちゃんも使って。鏡、持つだけじゃなくて」

「似合わない」

「似合うかどうかは別」

夕方、修理された鏡は新品になった。二人は並んで映ったが、似ているとは思わなかった。翌朝、初音は杏実の口紅を少しだけ借りた。杏実は何も言わず、洗面台の場所を半分空けた。

古い手鏡は捨てなかった。初音はもう要らないと言い、杏実は「予備にする」と洗面台の引き出しへしまった。新品の鏡に映る二人は、同じ顔立ちなのに表情の作り方がまるで違う。けれど歯磨きのコップを戻す位置だけ、二人で少し左へずらした。