ふたを開けた二時

能勢ゆらぎの玄関前に、銀色のスープジャーが置かれていた。

母からのメッセージはない。けれど側面に貼られた「試験前」の付箋だけで、誰が置いたか分かった。

午前二時。ゆらぎはジャーを机へ運び、ふたに手をかけたまま止まった。

法科大学院を退学したのは一週間前だった。授業についていけなかったからではない。法律家になりたいという気持ちが、もう自分の中にないと認めたからだ。

母は、ゆらぎが小学生の頃から「向いている」と言い続けた。成績が良ければ参考書を買い、進路に迷えば裁判所見学へ連れていった。善意だった。その善意を否定するようで、退学を言えない。

本棚には母が贈った六法が並び、机の下には退学届の控えがある。どちらも捨てられず、ゆらぎは部屋の中でも進む方向を失っていた。母の期待から降りたあと、何になりたいのかはまだ空白だった。

毎年、試験前になると母は柚子入りの鶏スープを届ける。今回も日程表を見て、励ますつもりで作ったのだろう。

ふたを開けると、柚子の香りがまっすぐ立った。スープはまだ熱く、喉を通るたび、固くなっていた胸の内側までゆるんだ。

ゆらぎは半分だけ器へ移した。全部食べれば、母の期待を受け取ったことになる気がした。手をつけず返せば、母そのものを拒むように思えた。

鶏肉を一切れずつ食べ、スープを飲む。母はいつも、ゆらぎの分だけ柚子を多くする。法律家になる娘のためではなく、酸っぱい香りが好きな子どものために覚えた量だ。

器の底に一口残ったところで、ゆらぎは手を止めた。

その一口をジャーへ戻す。残っていた半分と混ざり、食べた分と食べなかった分の境目が消えた。

付箋を剥がし、裏へ書く。

――学校は辞めました。次は、試験のない日に作ってください。

長い説明は書かなかった。ジャーを洗わず、ふたを閉める。明日の朝、母の家の玄関へ返すつもりだった。

けれどその前に、ゆらぎはもう一度ふたを開けた。

香りを確かめ、追加でもう一口だけ飲む。そして今度こそ閉じた。母の期待に従うためでも、反抗するためでもない。好きなものを、自分の欲しい量だけ残すためだった。

翌朝、母の玄関へ戻されたジャーには一口だけ残り、付箋は「試験前」の文字を内側にして貼り直されていた。