わさび葉を噛む
水越怜香は、ホテルの防災センターで午前二時を迎えた。
制服のポケットには、客室のカードキーが入っている。常連客に呼び止められ、手首をつかまれた部屋のものだった。客は笑いながら名刺を押しつけ、次は一人で来るよう言った。
当直支配人へ伝えると、「悪気はない」「大事な顧客だから」と返された。怜香も、その場では笑ってうなずいた。騒ぎにすれば、接客が下手な人だと思われる。恋人に話せば、すぐ辞めろと言われる。どちらにも、自分が怖かったことを言えなかった。
客が手を離したあとも、制服の袖には指の形が残っている気がした。鏡で確かめても痕はなく、証拠がないことにほっとしながら、同時に落胆した。目に見える傷がなければ、自分の不快感だけで大事な客を失わせることになる。支配人の言葉は、その迷いへ都合よく重なった。怖かった事実は、痕がなくても消えない。
防災センターの机に、警備員からの包みが置かれていた。わさび葉のおにぎりと、廊下の記録映像を保存した時刻を書いた紙。警備員は何も尋ねず、帰り際に「消える前に取った」とだけ言った。
包みを開くと、わさびの鋭い香りが鼻へ届いた。葉は米の外側まで巻かれ、噛めば繊維が残りそうだった。
怜香はいつも、わさび葉を外して中の米だけ食べる。刺激が苦手で、辛いものを無理に食べる人の気持ちが分からなかった。
今夜は葉ごとかじった。辛さが鼻の奥へ抜け、反射的に涙が出た。泣くつもりはなくても出る涙がある。怜香はそれを袖で隠さなかった。
カードキーを机へ置く。館内の事故報告画面を開き、客の言葉、つかまれた時刻、支配人へ相談した時刻を順に入力した。保存映像の番号も添え、送信先に本社のコンプライアンス室を加える。
おにぎりの最後の葉は、いちばん太かった。怜香は何度も噛み、飲み込んだ。
空の包みを記録時刻の紙へ重ね、警備員のロッカーへ返す。紙の裏には、〈使わせてもらいます〉とだけ書いた。
涙の跡が乾く前に、怜香はカードキーを証拠袋へ入れた。