ベルが一度
若宮倫太郎は、喫茶「毛糸玉」の閉店後まで、窓際の席を動かなかった。
一年前の同じ日、飼い犬のルッカがいなくなった。
散歩の途中、倫太郎がゲームに夢中になり、リードを手放した。大きな雷が鳴り、ルッカは商店街の角へ走って消えた。
家族と近所の人が何日も探したが、見つからなかった。
「死んだって決まってない」
倫太郎は、誰に言われてもそう答えた。
だから墓も作らず、写真にも花を置かなかった。帰ってくる犬のために、玄関の水皿だけ毎朝替えた。
「毛糸玉」は、ルッカが散歩のたび立ち寄った店だった。
店主は犬用の水を出し、倫太郎には薄いココアを作った。
一周忌だからと母に連れてこられたが、倫太郎は何も話さない。母が先に帰っても、席に残った。
十時。
店主が閉店札を掛け、照明を半分落とした。
「そろそろ帰ろうか」
「ここで待つ」
「何を」
「ルッカ。最後に来た場所だから」
店主は黙って厨房へ入り、洗い物を始めた。
倫太郎は扉を見つめた。
入口には小さな真鍮のベルが下がっている。客が来るたび、少し間の抜けた高い音がした。ルッカはその音を合図に、いつも尻尾を振った。
十一時を過ぎた。
外は静かで、車も通らない。
倫太郎のまぶたが重くなったころ、ベルが鳴った。
ちりん。
扉は開いていない。
風もない。
それでも、確かに一度だけ鳴った。
倫太郎は立ち上がった。
「ルッカ?」
返事はない。
床にも、窓にも、犬の姿はない。
もう一度鳴るのを待った。
ベルは動かなかった。
倫太郎は扉の前にしゃがみ、手のひらを床へ置いた。そこに頭を寄せてくる重さを思い出す。雨の日の匂い。耳の後ろの柔らかさ。散歩を急かす爪の音。
忘れていないことが、急に苦しくなった。
「ごめん」
一年間、言わなかった言葉が出た。
死んだと認めるようで怖かった。
「手、離してごめん。探すの遅くなってごめん」
声が震えた。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
店主は厨房から出てこなかった。
泣くところを見ないためだと、倫太郎にはわかった。
しばらくして、倫太郎は立ち上がった。
扉を開けると、今度はベルが普通に何度も鳴った。
外へ出て、振り返る。
「おやすみ、ルッカ」
翌朝、倫太郎は玄関の水皿を片づけた。
代わりに写真を置き、散歩で拾った丸い石を添えた。
帰ってくる場所をなくしたのではない。
帰ってきたとき、ちゃんと見つけられる場所に変えたのだ。
その夜、「毛糸玉」のベルは鳴らなかった。
倫太郎はもう、鳴らなくても聞こえる気がしていた。