マイナス記号の荷札
長尾美月は低温物流会社の配車事務だった。治験薬を運んだ便の納品承認会議で、温度記録票へ確認印を押すため呼ばれた。
薬は二度から八度で保管する必要がある。提出グラフは平均四・三度、最高七・八度。物流部長の矢代は、全区間適温だったと説明した。
美月が運転手から受け取った生ログでは、午後二時十六分にプラス十八・二度まで上がっていた。冷蔵庫の扉を四十分開けたまま積替えたためだ。
会議用の一覧では、その値がマイナス八・二度になっている。数字の1を消し、前に横棒を足していた。
「センサーが一時的に逆転表示した」と矢代は言った。
美月は温度計の仕様書を示した。マイナス温度は「-08.2」と四桁で表示される。会議用一覧の「-8.2」は手入力でしか作れない。
製薬会社の担当者は、一点だけなら平均値への影響は小さいと考えた。
美月は時刻別記録を展開した。十八度超は一点ではなく四十一行続いていた。会議用PDFでは最初の一行だけを改変し、残り四十行を「通信欠損」として削除している。車載端末の通信はその間も正常だった。
矢代は、納品拒否になれば運転手へ全額弁償させると言った。美月は運転手が扉の故障を三度報告していたことを知っていた。修理を先送りしたのは会社だった。
彼女は荷札の承認印を指した。押印時刻は午後二時十七分。異常が始まった一分後に、矢代は「温度逸脱なし」と承認している。
「横棒一本で、十八度は冷凍庫になりません」
美月は車載カメラの映像を示した。午後二時十六分、扉の警報灯は点滅し、運転手は配車室へ電話している。通話記録には矢代の声で『納期優先、そのまま走れ』と残っていた。異常を知らなかったのではない。十八・二度を見た後で、横棒を足したのだ。
運転手の報告書には、美月が受信した時刻も自動記録されていた。
製薬会社の責任者が納品承認書を封筒へ戻した。美月の確認印は朱肉に触れず、治験薬の支払決裁はマイナス記号の前で止まった。