マネキンの赤い靴
被服室の中央で、渡瀬真帆はマネキンに灰色のドレスを着せた。
裾は片側だけ長く、背中のファスナーは途中で止まっている。片倉理央奈がまち針を口にくわえ、笹岡柊也が照明を組んでいた。
「あと三十分で縫える」と理央奈。
「縫わない」と真帆。
「展示、明日だよ」
「出さない」
真帆は四月から物流会社の事務職に就く。家の事情で残業の少ない仕事を選んだ、とだけ言った。二人は、それでも夜に衣装を作ると思っていた。
「布、全部処分した」
「このドレスは?」と柊也。
「置いていく」
真帆の裁縫箱には、三人の体の寸法を書いた古いメモがある。理央奈の肩幅、柊也の股下、真帆自身の首回り。衣装を作るたび、三人は数字へ変わった。
真帆はメモを破ろうとしてやめる。「服を作らなくても、二人のサイズは忘れないと思う」
「忘れて。もう太るから」と理央奈。
理央奈は劇団の衣装工房へ弟子入りする。「私は、舞台で破れても直す服を作る」
柊也は通販会社の商品撮影へ行く。「俺は三秒で買いたくなる写真を撮る」
真帆は自分の制服の採寸票を畳んだ。「私は、毎日同じ服を着る」
「諦めるって、そんなにきれいに言わなくていい」と理央奈。
「きれいに畳まないと、持っていけないから」
柊也はカメラを構えた。「最後に撮る?」
「完成品みたいに撮らないで」
「未完成として撮る」
「それも作品になる」
結局、シャッターは切らなかった。三人でまち針を抜き、落ちた糸だけを拾う。
退室前、真帆は履き替え用の赤いパンプスをマネキンの足元へ揃えた。
「それも置くの?」
「この服に一番似合うから」
理央奈は採寸用のメジャーをマネキンの首へ掛けた。数値は真帆の首回りと同じだった。偶然だと笑おうとして、誰も笑えない。柊也は照明を落とし、赤い靴だけに光が残る角度で固定したが、写真は撮らなかった。
真帆の机は空になった。背中の開いたドレスを着たマネキンだけが赤い靴で立ち、出発しない持ち主をいつまでも待っているように見えた。