一度だけ鳴る拍手

長峰が使う音声アプリには、拍手のボタンがある。

押されると、乾いた手の音が一度だけ鳴る。画面に文字は残らず、誰が押したのかも表示されない。

午前零時四十一分。長峰は「今日できた小さなこと」を話す配信を開いた。聞いている人は二人。部屋の照明は机の上だけで、空調のファンが低く回り、窓には雨が細く流れていた。

本当は何も話すことがなかった。

仕事では返事を二通遅らせた。洗濯物は椅子に積んだまま。夕食は菓子パンだった。配信を休む理由としては弱く、続ける理由も見つからなかった。

長峰はマイクへ近づき、「今日は、流しにあったコップを一つ洗いました」と言った。

自分で口にすると、あまりに小さかった。

空調が回る。雨が窓を叩く。誰もコメントしない。

それから、ぱん、と一度だけ拍手が鳴った。

長峰は笑いそうになり、少しだけ息をこぼした。励まされたというより、夜のどこかで誰かがボタンへ触れた、その指先の存在を感じた。

「以上です」と終わるつもりだったが、もう一つ思い出した。

朝、枯れかけた観葉植物へ水をやった。エレベーターで開くボタンを押して待った。帰宅して靴をそろえた。

どれも拍手を求めるほどではない。長峰は順に話し、最後は「明日は洗濯物を畳めたら」と言った。

二度目の拍手は鳴らなかった。

同時接続も二人のまま。聞いている人が席を外している可能性もある。最初の拍手が誤操作だった可能性さえある。

十分で配信を切る。部屋には空調と雨が残った。

長峰は椅子の洗濯物を見たが、畳まなかった。代わりに、もう一つだけ流しの皿を洗う。水の音が止まると、部屋は元の静けさへ戻った。

水切りかごへ置いた二枚の食器から、雫が一つずつ落ちた。ぱん、という音ほど明るくはない。それでも長峰は、反応が消えたあとにも続く小さな仕事を、自分の耳で確かめた。窓の雨も、さっきより細くなっていた。

拍手のない時間にも皿は乾く。今夜はそれを眺める人が自分一人でも、悪くなかった。