一本遅い電車
柊木紗良は、宇野茉凪を三か月、急かさずにいた。
茉凪は二十九歳で離婚したあと、自分が女性を好きになることを初めて認めた。結婚していた頃の気持ちが全部嘘だったわけではない。ただ、名前を知らなかった感情があった。紗良といると、それが輪郭を持った。
紗良も茉凪が好きだった。けれど言えなかった。離婚直後の茉凪にとって、自分が「本当の自分を証明する相手」になるのが怖かった。最初の女性だから選ばれたのか、一人の人間として選ばれたのか、疑い始めれば止まらない。
茉凪は、前の結婚を間違いだったとは言わなかった。元夫を大切に思った時間まで否定すれば、今の気持ちもいつか否定することになるからだ。紗良はその誠実さを好きになった一方、自分が新しい人生の記号にされることを恐れた。祝福される『本当の恋』という物語にも、急かされたくなかった。電車の時刻表だけが、二人へ答えを迫っているようだった。
駅のホームに、最終電車が入るまで九分。茉凪は来月、転勤で仙台へ行く。
「向こうへ行ったら、連絡減らすね」
「急がなくていいよ。落ち着いてからで」
「またそれ」
「何が」
「急がなくていいって言われるたび、待たれてない気がする」
紗良はベンチから立てなかった。ホームは両側を線路に挟まれ、次のホームへ移るにも階段は遠かった。
「茉凪が混乱してるときに、私が答えになりたくないの」
「紗良は答えじゃない」
「じゃあ何」
「好きな人。たまたま最初に好きになった女性だけど、最初だから好きなんじゃない」
発車案内が残り四分に変わる。茉凪は続けた。
「私が自分を決めるまで、紗良を保留にするのも違うと思った」
紗良は好きと言わなかった。代わりに、茉凪の転勤先を表示した路線検索を閉じないまま立ち上がる。
「急がなくていい」
三度目は遠ざける言葉ではなかった。
「でも、私は置いていかないし、置いていかれたくない」
最終電車の一つ前がホームへ入った。紗良は乗らず、茉凪と並んで黄色い線の内側へ下がった。