一行だけの契約
二階堂汀の評価面談には、赤字の入った英文契約書が一部だけ置かれていた。
法律事務所のパラリーガルになって一年。請求できる作業時間が基準より少なく、評価は昇給対象外だった。面談室の時計の下には、今月の請求時間ランキングが掲示され、汀の名前は下から二番目にあった。
「全部を読み直す癖をやめないと。依頼された箇所だけ確認すればいい」
担当弁護士が示したのは、海外企業との販売契約だった。依頼は会社名と金額の差し替えだけ。汀は更新後の版を見比べる途中、解除通知の一行に手を止めた。
英文は〈三十暦日前〉、日本語訳は〈三十営業日前〉。休日を挟めば二週間近い差が出る。今回の契約は年額二千万円で、通知が一日遅れるだけでも翌年分が自動更新される。依頼箇所ではない一行が、顧客の次の一年を決めかねなかった。取引先が契約を終えたい日に間に合わず、翌年分の自動更新料が発生する可能性があった。
「その条文は前の版から同じだ。今回の請求範囲ではない」
「見つけた後も、範囲外には戻せません」
汀は顧客へ勝手に連絡せず、差異を一行の照会票にまとめた。後輩には、全文を目で追う代わりに、二言語の数字・日付・否定語だけを抽出して比べる表を渡した。今日の契約なら数分で確認でき、請求時間も増やさずに済む。後輩が試すと、別紙の日付表記にも一か所ずれが見つかった。汀は発見者欄へ後輩の名を書き、自分は確認手順の作成者に回った。
担当弁護士は、顧客対応を増やすコースへ進めば評価されやすいと勧めた。会議で話し、案件を取る人が昇格する仕組みだった。汀は顧客の前に出ることが嫌なのではない。ただ、声の大きさより、同じ誤りを二度起こさない仕組みで評価される場所を選びたかった。
汀は、法律業務の手順と文書管理を整える〈リーガルオペレーション〉の社内公募を開いた。
「話す人の後ろで、見落としにくい仕事を作りたいです」
照会の結果、英文が誤りだと判明した。汀は修正版を顧客へ提出し、その送信完了画面のまま異動申請も送った。