下書きのつもりだった
「下書きは、送る前に一晩寝かせるものです」
編集者の榎木結月は、新人作家へいつもそう伝えている。勢いで書いた言葉ほど、翌朝には違って見える。恋愛も同じだと思い、笹原晴貴へのメールを何度も下書きに保存してきた。
晴貴は担当していた雑誌のデザイナーで、春から独立する。最終号の校了後、二人で会う理由はなくなる。晴貴が選ぶ余白の幅も、結月のコーヒーから砂糖を抜くことも、次の案件へは引き継がれない。仕事の履歴だけ残して離れるには、互いを知りすぎていた。
結月は最後の夜、下書きフォルダへ書いた。
《晴貴さん》
《次の仕事ではなく、次の休日に会いたいです》
《担当編集とデザイナーではない名前で、あなたの隣にいたい》
保存するつもりで押したボタンは《送信》だった。
結月は画面を見つめた。取り消せないメール。既読機能もない。相手が読む前に電話して誤送信だと言うこともできたが、それでは本当に下書きへ戻ってしまう。
十分後、晴貴から返信ではなく、PDFが届いた。
表紙デザインのような一枚。中央に《結月と晴貴の休日》、下に来週土曜の日時と待ち合わせ場所。著者名や会社名の代わりに、二人の名前だけが並んでいる。
さらに修正指示が一つ。
《“晴貴さん”から“晴貴”へ変更希望》
結月は赤字で承認印を押した画像を返す。すると編集部の扉が開き、帰ったはずの晴貴が戻ってきた。
「一晩、寝かせなくていいんですか」
結月が尋ねると、彼は机の上の最終号を閉じた。空いた場所へ手を差し出す。
「三年寝かせたので、もう十分です」
結月はその手を取り、指を絡める。晴貴は彼女の社員証を裏返し、自分の名刺もポケットへしまった。二人で編集部を出るとき、晴貴はいつものように重い資料箱を持ち、結月は空いた彼の手を取った。結月は土曜の予定をカレンダーへ入れた。次の日曜も、その次の月も空けておく。
下書きは一晩寝かせるものだった。
けれど送信された一通は、眠らせすぎた二人の続きを、その夜のうちに校了させた。