下駄箱の三段目
用務員さんが退職することを、私たちは職員室の前で偶然聞いた。
全校にはまだ発表されていない。
二人だけの秘密だった。
用務員さんは、壊れた傘を直し、部室の鍵を探し、夏には花壇へ水をやってくれた。目立たないのに、学校の困りごとはたいてい知っていた。
「何かしたい」
親友が言った。
大人に相談すれば、正式な送別会になる。用務員さんは人前が苦手で、きっと断る。
だから、誰にも言わない計画にした。
夜の学校へ入り、全校生徒の下駄箱へ小さな紙を一枚ずつ入れる。
『明日、校内で助けてもらったことを一つ思い出してください。本人へ言わなくてもかまいません』
名前は書かない。
下駄箱は六百以上あった。
二人で三時間かけた。
三段目へ入れるとき、親友が指を切った。絆創膏を探すと、昇降口の救急箱にきちんと補充されていた。用務員さんの仕事だと分かった。
翌朝、紙を見た生徒たちは首をかしげた。
落とし物を届けてもらった。机を直してもらった。雪の日に道を作ってもらった。
昼休みになると、誰かが用務員室の前へ缶コーヒーを置いた。
次に、手紙。
花壇の花。
修理された古い椅子の写真。
私たちは何も呼びかけていない。けれど、紙を読んだ人がそれぞれの方法で動いた。
用務員さんは困った顔で、廊下を何度も行き来していた。
放課後、私たちは用務員室へ呼ばれた。
「下駄箱の紙、君たちだろ」
否定しようとしたが、親友の指の絆創膏を見て笑われた。
「補充したばかりだから覚えてる」
叱られなかった。
用務員さんは机の引き出しから、小さな鍵を二つ出した。
「夜に入るなら、窓を壊すな。これは返却済みの古い鍵だ。記念に持っていけ。ただし、もう使えない」
私たちは受け取った。
退職の日、全校集会はなかった。
用務員さんはいつものように校門を閉め、最後にこちらへ手を振った。
誰にも言えない計画は、秘密のまま学校中へ広がった。
今も古い鍵を見ると、三段目の下駄箱へ紙を入れ続けた夜と、見えない仕事を思い出す。