主君を替えない一筆
折れた軍扇が、硯の脇に置かれていた。
「主君はもう、お前を捨てた」
敵方の使者、梶原兵庫は前の人生と同じ声で囁いた。
山城を守る久我蒼真には、兵が三十人しか残っていなかった。兵庫が差し出した帰順契約には、開門すれば部下も領民も助けるとある。さらに、主君が蒼真を反逆者として切り捨てたという書状まで添えられていた。
蒼真は絶望し、血判を押した。
門を開けた直後、部下は皆殺し。帰順契約は「蒼真が自ら謀反を認めた証拠」として天下へ示され、彼の一族まで処刑された。
火を放たれた天守で腹を切った次の瞬間、蒼真の指には筆が戻っていた。
同じ雨。同じ硯。同じ折れた軍扇。兵庫は、勝利を確信した顔で血判欄を指す。
「忠義で腹は膨れぬ。生きたければ、名を書け」
前回、蒼真は主君の書状を何度も読み、最後には信じた。
今は紙を灯火へ透かす。主家の正式な書状には、漉き込まれた三つ葉が影になる。だがこの紙に見えるのは、敵家の蔵紙を示す五本線。
「これは偽物だ」
兵庫の笑みが消えた。
「敗軍の将が、見苦しいぞ」
「なら、なぜ主君の花押に左払いがない?」
蒼真は偽書を硯へ沈めた。墨が流れると、その下から薄い下書きが現れる。《久我、必ず開門す》。兵庫自身が練習した跡だ。
天守に詰めていた老書役が目を見開く。
「偽造の筆癖、使者殿の通行札と同じにございます」
兵庫は短刀へ手を伸ばした。蒼真の筆が先に動く。
帰順契約の署名欄へ、彼は一文字だけ書いた。
《否》
「愚かな。夜明けには総攻めだ!」
「夜明けまで待つ必要はない」
蒼真は折れた軍扇を窓から投げた。それは降伏の合図ではない。前の人生で、主君の援軍が谷に潜んでいたと後から知った。折れ扇は「敵使者を確保せよ」の合図だったのだ。
谷から法螺貝が三度鳴る。
兵庫の顔が青ざめる。城下に火が連なり、敵軍の背後へ主家の旗が立ち上がった。
前の人生では、この時刻、城門の閂が外される音がした。
今、聞こえたのは逆だった。
門兵が太い閂をもう一本差し込み、叫ぶ。
「御主君より伝令! 久我蒼真の忠節、疑う者なし!」
偽書の上で、《否》の一字だけが鮮やかに残った。