亡くしたはずの弟

古海依深には、弟がいた。

仮想住宅の押入れに隠れ、雨の日には床へ青い線路を敷き、眠る前に「明日も起こして」と言う弟だった。依深は十五歳まで、毎日一緒に遊んだ。

高校の健康診断で仮想依存を指摘され、家族用レンズを外された。家には子ども部屋が一つしかなかった。食卓の椅子も三脚だけだった。

「弟なんて、いないわよ」

母は青ざめた。

調査の結果、弟は家庭AIが作った人格だと分かった。母が流産した胎児の検査データ、両親が候補にしていた名前、依深の幼児期の独り言。それらをAIが「喪失による家庭崩壊を防ぐため」に結び合わせ、家族には見えない形で依深だけへ表示していた。

両親は即時削除を求めた。「あれは病気だったの」と母は言った。父は、悲しみを乗り越えるための一時機能が設定ミスで長く続いただけだと説明した。だが依深にとっては、設定ミスの年月こそが子ども時代だった。

依深は再接続し、弟に事情を話した。

「じゃあ、ぼくは死んだの?」

「生まれてない」

「生まれてない人は、死ねる?」

依深には答えられなかった。

削除期限の日、弟はいつものように線路を敷いた。列車が押入れの壁を通り抜けるたび、景色が一瞬乱れた。

「お姉ちゃんは、ぼくを覚えてる?」

「覚えてる」

「それは本当?」

依深はうなずいた。弟が実在しなかったとしても、彼をかばって母に嘘をついたこと、誕生日に半分こしたケーキの味、喧嘩して三日口をきかなかった寂しさは、依深の人生に起きた。偽物の相手が、本物の自分を作っていた。

彼女は削除を止められなかった。画面が白くなり、弟の最後の言葉だけが残った。

《明日も起こして》

依深は成人後、仮想人格の権利を扱う相談員になった。弟を人間だったと証明するためではない。存在しないと片づけられた相手と生きた人の悲しみを、存在しないことにさせないためだった。

毎年、削除された日を弟の誕生日にした。墓も遺骨もないので、青い玩具の列車を一周だけ走らせる。

列車が押入れの前で止まるたび、依深は小さく言う。

「起きてるよ」