人工の月の下

 沙月の職場には、夜でも消えない月が並んでいる。

 植物工場の栽培室。白と紫のLEDが棚ごとに点き、レタスの葉を均等に照らす。養液ポンプが低く回り、送風機が薄い葉を同じ方向へ揺らしていた。

 午前二時、沙月はガラス越しの人工の月を背に、休憩室へ入った。

 照明は暖色だが、窓から紫の光が差し込み、机の端だけ夜明け前のような色になっている。空調は乾いた音を立て、給茶機の内部で小さなモーターが回った。

 沙月は冷たい麦茶を選んだ。

 机の中央に、透明なカップが一つ置かれている。水の中に、小さなレタスの葉が浮いていた。商品にはならない、親指ほどの葉。カップには「折れたので」とだけ書かれている。

 誰かが捨てずに水へ入れたのだろう。

 沙月は葉を指で触らなかった。水面が空調の風でわずかに揺れ、紫の光を細かく割っている。

 この春、妹が結婚した。実家の食卓には新しい名字の話が増え、沙月は祝福しながら、自分だけ棚に残されたような気持ちになった。比べる必要はないと分かっている。分かっていることと、夜中に感じることは別だった。

 壁の記録表には、一時間ごとの温度と湿度が並んでいた。変化は小数点以下で、ぱっと見れば昨日と同じだ。それでも葉の重さは朝ごとに増える。沙月は、自分にも記録されない変化があるのかもしれないと思った。大きく前へ進んでいなくても、今夜ここで水を飲み、座った時間まで無駄になるわけではない。

 養液ポンプが止まる。

 送風機だけが回る。

 葉の影が机の上で静かになる。

 ドアの外を白衣の人が通り、窓越しにカップを見た。立ち止まり、親指を立てる。沙月が頷くと、その人は声をかけずに去った。折れた葉を置いた人かもしれないし、違うかもしれない。

 ポンプが再び動き、水が配管を巡り始めた。

 栽培室のレタスは、一枚ずつ離れて見えても、同じ水の循環につながっている。だから寂しくない、とは沙月は思わなかった。植物のように生きられるわけでもない。

 ただ、折れた小さな葉を夜の机へ置いた手があった。その手も今、どこかの棚を点検している。

 休憩が終わる。沙月はカップの水を少し足し、元の場所へ戻した。

 人工の月の下へ戻ると、葉は同じ方向に揺れていた。今夜は自分の時間だけが止まっているわけではない。それで、次の二時間を一人で歩けそうだった。