会計係の防御値
魔王軍が南城壁を崩したとき、会計係パルシェは給与台帳を閉じなかった。
勇者も騎士も前線へ出ている。城内に残ったのは負傷兵と職人、そして攻撃技能を一つも持たない事務官だけだった。
敵将ゼンドルは崩れた壁の向こうから笑う。
「降伏しろ。帳簿係を殺しても経験値にならん」
パルシェは羽根筆で一行を訂正した。
「先月分の危険手当が未払いです。降伏処理はその後で」
ゼンドルが重力杖を振る。残っていた城壁が内側へ倒れ、石塔と兵舎の屋根が会計机へ雪崩れ込んだ。
土煙で視界が消える。
敵兵は城内へ踏み込んだが、ゼンドルの視界に浮かぶ戦闘画面は、対象の消滅を告げなかった。
《事務官パルシェ 状態:勤務中》
死亡でも瀕死でもない。勤務中。
煙が晴れる。
パルシェは同じ姿勢で椅子に座っていた。左手で台帳を押さえ、右手で羽根筆を動かしている。机の周囲だけ石材が四角く切り取られ、書類には埃一粒ついていない。
戦闘履歴には《重力崩落・直撃》が二百三十七件並び、その全件で損傷値だけが零だった。表示の故障なら命中判定も消えるはずだ。魔王軍の兵たちは、攻撃が届いていないのではなく、届いた結果が零なのだと理解した。机の後ろでは負傷兵が静かに立ち上がり始める。
彼女が守ったのは紙だけではない。台帳に名を残す全員の給金と、帰る場所まで敵へ渡さないという宣言だった。
「防御技能か。数値を見せろ」
ゼンドルが鑑定を実行する。
《防御:――》
空欄を見て、彼は嘲笑した。
「数値なしではないか」
「桁が枠に入らない場合も空欄になります」
パルシェは顔を上げない。
怒ったゼンドルは重力杖を空へ掲げ、攻城用の隕石を呼んだ。一撃目より一段上の魔王軍奥義。燃える岩塊が会計机へ落ち、城内を黒煙で埋めた。
黒煙が流れたあとも、羽根筆は同じ速さで動いていた。
《危険手当:隕石一回分》
パルシェが追記すると、戦場全体の鑑定画面が自動更新される。防御欄へ数字が流れ込み、百桁を越えたところで枠そのものが消えた。
《防御値――測定不能》