住所のない帰り場所

由依は引っ越して八か月たつのに、玄関の表札を空白のままにしていた。二年契約の部屋だから、いずれ出る。カーテンも仮のもの、食器も二枚だけ。仕事から帰っても、そこは住まいというより荷物置き場に近かった。友人を招いたことはなく、宅配の宛名に自分の名前があると、借り物の扉へ間違って届いたような気がした。転勤が決まったときも「どうせまた動く」と、荷ほどきを半分でやめたままだった。

夜の商店街で、由依は住所を持たないという旅人に会った。旅人のコートにはホテルのタグ、乗車券、手書きの道順が縫い付けられ、背中には番地のない小さな表札がぶら下がっている。

「郵便はどうするんですか」

「届くものだけ、受け取ります」

旅人は由依の買い物袋から、半額の惣菜と紙コップを見て妙な質問をした。

「あなたの家を、住所を使わず説明してください」

由依は駅から徒歩七分、三階の角部屋、と答えかけた。それでは住所と変わらない。

しばらく考え、「冷蔵庫が夜中に二回鳴る部屋」と言った。

旅人はうなずかない。

「それは部屋の説明です。帰る場所の音は?」

由依には分からなかった。帰ってもテレビをつけず、湯も沸かさず、上着のままベッドに座る。カーテンの隙間から隣の看板が明滅し、自分がいる音さえ残していない。

旅人は、白木の小さな札を渡した。

「今夜、そこに自分が帰ったと分かる印を一つ置いてください」

名前を書けとは言わなかった。花を飾れとも、丁寧に暮らせとも言わない。旅人は商店街の外れで、タグだらけのコートを翻し、夜行バスへ乗った。

由依は部屋に戻った。冷蔵庫が一度鳴り、紙コップがテーブルで軽く揺れた。白木の札を玄関に置き、ペンを持つ。隣室では鍋の蓋が鳴り、廊下を誰かの足音が通り過ぎた。この建物で、自分の扉だけが無記名だった。

名前を書くのは、ここにいると認めることに思えた。二年後に外すとき、寂しくなるかもしれない。それでも、空白のまま過ぎた八か月も、自分の時間だった。仮住まいでも、今日帰る場所はここにしかない。

由依は札に名字ではなく、ひらがなで「ゆい」と書いた。裏の粘着紙を剥がし、何もなかった玄関扉へ貼りつけた。