借り物の左手
橋の中央で、オルフェンは空の左袖を悪魔マルグへ差し出した。
「一刻だけ、手を貸せ」
黒い指が袖口から生え、骨と腱を作りながら肩へつながる。借りた手は、どんな剣も必ず受け流す。ただしその手を一度動かすたび、オルフェンの記憶を一つ、指の中へ蓄える。契約が終われば、手と一緒に記憶も悪魔へ戻る。
橋の向こうでは、剣士シダラが避難民の列を塞いでいた。
一合目。借りた手が剣を弾く。オルフェンは、初めて馬へ乗った日の記憶を失った。
二合目。妹の笑い声。
三合目。母の煮込みの味。
黒い手の爪に、小さな光が一つずつ灯る。奪われた記憶だ。
「右手だけで戦え」と避難民が叫ぶ。
右手には剣を握っている。だがシダラの刃は速く、左手の守りなしでは一歩も進めない。
五合目で、剣術を教えた師の顔が消えた。
七合目で、なぜこの橋を守っているのかが曖昧になった。
背後の人々が誰か分からない。それでも、彼らを渡らせると決めた意志だけは残っている。
シダラが必殺の突きを放つ。
オルフェンは借りた左手で刃をつかんだ。掌が裂けても、黒い血がすぐ傷を閉じる。その一動作で、剣の握り方を忘れた。
右手から自分の剣が落ちる。
最後は、借りた手で殴った。
シダラの顎が砕け、橋の欄干を越えて落ちた。避難民が一斉に走り出す。全員が向こう岸へ渡ったとき、遠くで鐘が一度鳴った。
一刻が終わる。
黒い左手が肩から外れた。五本の指に灯った記憶が、蛍のように脈打っている。
マルグは手を拾い、一本ずつ味わうように曲げた。
「よい人生だ。特に、この女の記憶が甘い」
避難民の中から一人の女性が戻り、オルフェンへ抱きついた。
「兄さん」
彼は知らない人に触れられた驚きで身を引いた。右手は剣を持つ形を作れず、左肩には古い傷口しかない。
「私は誰だ」と尋ねる。
女性が泣きながら名を告げた。
オルフェン。
その音は、橋の下を流れる水音と同じくらい他人のものだった。
人々を渡らせた剣士は生き残った。だが対岸へ着いたとき、戦った理由も、待っていた家族も、自分の名を握る手も、すべて悪魔が持ち去っていた。