停留所で弦を張る

 鳥居崎航が路面電車の停留所へ着くと、突然の雨で屋根の下はいっぱいだった。

 航は端へ詰め、背負っていたヴァイオリンケースを胸へ抱えた。

 隣には、古い革鞄を持つ男性が立っている。

「楽器ですか」

「はい。練習の帰りです」

「濡れなくてよかった」

 男性は鞄を開き、細い木材と工具を確かめた。

 弦楽器の修理をしているという。

 雨は停留所の屋根から太い筋になって落ちた。

 次の電車は十分遅れている。

「弦、切れたことあります?」

 男性が訊く。

「今日、一本切れました」

「驚いたでしょう」

「本番前だったので」

 航は笑おうとしたが、まだ胸の奥が縮んでいた。

 小さな発表会で、演奏直前に弦が切れ、急いで張り替えた。曲は弾けたが、何度も音を外した。

「張りたての弦は、落ち着くまで少し動きます」

 男性が言う。

「練習不足ではなく?」

「練習していても動くものは動く」

「本番は待ってくれません」

「だから、終わったあとに調整する」

 航はケースを開け、楽器を少し見せた。

 男性は触れず、張り替えた弦を目で確認する。

「強く張りすぎてはいない。帰ったら、もう一度音を合わせればいい」

「演奏は戻せません」

「音は戻らない。でも、次の音はまだある」

 売店の自動販売機で、男性が温かいココアを二本買った。

「修理代ではありません」

「停留所の診断料」

 航は笑い、受け取った。

 缶から甘いカカオの香りが上がる。

 雨が弱くなり、遠くから電車のベルが聞こえた。

 停留所の人々が傘を畳み、列を整える。

 男性は反対方向の電車へ乗るらしい。

「名前を聞いても?」

 航が訊くと、男性は鞄から小さな店のカードを出した。

「次に弦が切れたら」

「切れなくても行っていいですか」

「調整だけでも」

 二台の電車がほぼ同時に来た。

 別々の車内へ乗り、窓越しに会釈する。

 雨上がりの線路が、夕方の光を長く反射していた。

 帰宅後、航は楽器を出し、一音ずつ合わせた。

 張り替えた弦は少し低くなっていた。

 ペグをゆっくり回すと、木と松脂の匂いが部屋へ広がる。

 今日外した音は戻らない。

 けれどココアの甘さが残る指で、次の音を正しい場所へ置くことはできた。