刃のない鋏で婚約を切る
オルガの手首には、婚約契約の赤い糸が食い込んでいた。
公爵家が決めた相手へ逆らうたび、糸は締まり、声と魔力を奪う。今夜の舞踏会で誓約書へ署名すれば、糸は心臓まで根を張る。両親も司祭も「家のため」と微笑み、彼女が首を振る権利だけを見ないふりをした。
会場へ向かう馬車の中で、オルガは成人祝いに付いていた一度限りの祝福ガチャを回した。
膝へ落ちたのは、刃が二枚とも丸い子ども用の鋏だった。
【N:安全な糸切り鋏】
【糸以外は切れません】
侍女は泣きそうな顔で「せめてリボンにお使いください」と言った。
だが赤い契約は、他人には見えなくても糸だ。紙を破る必要も、相手を傷つける必要もない。
舞踏会の中央で、婚約者が署名用の羽根ペンを差し出した。司祭が命令文を読み上げ、赤い糸がオルガの指を無理に動かそうとする。
彼女は羽根ペンではなく、丸い鋏を取った。
「私は、結びません」
声にした瞬間、糸が首まで締まる。息が途切れかけても、オルガは鋏を手首へ当てた。
刃のない二枚が、赤い糸だけを挟む。
ぱちん。
軽い音とともに、婚約契約が中央から切れた。羊皮紙の文字がほどけ、司祭の命令魔法が消え、両親の印章から強制権だけが抜け落ちる。糸は灰にならず、床へ赤い絹として落ちた。ただの糸なら、もう誰も縛れない。
会場の壁に掲げられた両家の紋章からも、赤い線が一本ずつ抜けた。領地の同盟や正当な商契約は残り、オルガの同意を偽装した条項だけが白紙になる。
「家が滅びる」と父は呻いたが、床の契約書には、当人同士が望めば改めて交渉できると残っていた。滅びるのは家ではなく、拒否を無視して得るはずだった利益だけだ。
婚約者が腕をつかもうとしたが、オルガは一歩下がった。今度は痛みも罰も来ない。
彼女は自分の手で舞踏会の扉を開ける。夜気は冷たく、けれど吸い込んだ息はどこまでも自由だった。
丸い鋏の表面へ、見たことのない虹色の銘が現れる。
【強制された縁のみを切断、関係者への損傷ゼロ】
【神話級EX《自由意志の断縁鋏》――世界初の自己契約解除を承認】