利き手ではない指
沙都は、選択肢が二つあると安全な方を押した。社内アンケートなら「現状維持」、ランチなら「いつもの」、研修なら「参加しない」。失敗しない選択を積み重ねれば、少なくとも後悔は減るはずだった。
商品企画部の柴崎壱成は、右利きなのに、時々左手でマウスを使う無口な同僚だった。理由を聞いても「たまに」とだけ答える。会議では発言しないが、試作品を触る手つきだけは迷いがなかった。
社内公募の締切日、沙都は新規事業チームの募集ページを何度も開いた。半年間の兼務。経験不問。応募ボタンは青く、その隣に「閉じる」が灰色で並ぶ。挑戦したいが、今の部署で困っているわけではない。選ばれなければ恥ずかしい。選ばれればもっと怖い。
壱成が通りかかり、画面を見た。何も尋ねず、付箋に書く。
『次に迷うボタンは、利き手ではない方で押す』
「それで正しい方がわかるんですか」
壱成は首を横に振った。
「じゃあ、意味ないですよね」
今度は少しだけ頷いた。意味がないことを認めて、自席へ戻った。
沙都は呆れた。手を変えても、結果は変わらない。責任も消えない。けれど右手は、過去の失敗を全部覚えている気がした。左手なら、押す瞬間だけ少し不器用でいられる。
去年も似た公募があり、沙都は締切直前に画面を閉じた。そのときは安堵したのに、選ばれた同僚の報告を聞くたび、胸の奥に小さな棘が残った。応募しなかった選択は失敗にならない代わりに、成功だったと確かめることもできない。安全な方を選ぶことと、望んでいない方を選ぶことが、いつの間にか同じになっていた。
締切まで十分。応募理由を書く欄に「今の仕事が嫌だからではなく、知らない仕事を一度してみたい」と入力した。格好のいい志望動機ではない。消そうとして、右手を止める。
左手をマウスに置く。カーソルが少し行き過ぎ、青いボタンの外へずれた。沙都は笑い、ゆっくり戻した。
選ばれるかどうかは、まだ先だ。人生が変わるかもわからない。
彼女は左の人差し指で、「応募する」を押した。