劇場桟敷の無音拍手

王立劇場の桟敷席で、大女優の鳳城蘭は案内係の篠宮弦へ扇子を投げた。

「私の席に新人女優を通したわね。今すぐ引きずり下ろしなさい」

「本日の招待席は、主演者のご家族へ割り当てられています」

「私が十年前の主演よ。劇場そのものが私の席なの」

 蘭は弦の胸元を指で押し、周囲の客へ聞かせる。

「この男が私を突き飛ばしたことにして、公演を止めましょう。支配人には私から言うわ」

 彼女は苦情票へ〈案内係から暴行を受け転倒、右足を負傷〉と署名し、その場で床へ座った。

「さあ、謝罪会見の準備をして」

 弦は扇子を拾わず、壁の小さな銀灯を見た。

「蘭様。舞台用の胸飾りを外されていません」

 蘭の衣裳には、開演前の記者取材で使った無線マイクが残っていた。本人が「私の声は劇場中へ流しなさい」と命じ、切替権限をスタッフから奪っていたのである。

 銀灯が点き、先ほどの声がロビーへ流れた。

『新人の靴へ松脂を塗った? 転べば代役は私よ』

『この男が私を突き飛ばしたことにして、公演を止めましょう』

 客席のざわめきが波のように広がる。

 蘭は胸飾りを引きちぎった。

「台詞の稽古よ!」

「苦情票には実際に暴行を受けたと署名されています」

 弦が示すと、蘭は立ち上がって奪おうとした。負傷したはずの右足で、誰より速く。

 桟敷の奥から拍手が一度だけ鳴った。

 主演女優の母ではない。劇場理事長だった。

「十年前の功績で、今日の犯罪は消えません」

「私なしでこの劇場が成り立つと思って?」

「今夜の主演は、あなたが転ばせようとした新人です」

 舞台から開演ベルが聞こえる。客席は蘭ではなく幕へ向き直った。かつて彼女へ向けられた拍手は一つも起こらず、幕の向こうの新人へ静かに蓄えられていく。

 弦は投げられた扇子を持ち主へ返さず、証拠袋へ静かに収めた。

 理事長は苦情票と録音記録を支配人へ渡す。

 支配人が契約解除書を開き、静まり返った桟敷で読み上げた。

「鳳城蘭との全出演契約を即時解除し、傷害未遂および虚偽告発について刑事告訴する」