労働博物館の夜

錦織菊乃は、校外学習で労働博物館へ行った。展示されているのは、掃除、運搬、調理、修理といった、昔の人が毎日していた苦行である。

菊乃は特に《待つ》という展示が嫌いだった。昔の人は、湯が沸くまで火を見て、返事が来るまで手紙を待ち、作物が育つまで季節を過ごしたという。現在なら待ち時間は娯楽で埋められ、結果だけ受け取れる。祖母が「待ったものほど覚えている」と話すたび、菊乃は記憶力の低下だと思っていた。

同級生たちは「時間の浪費だ」と笑った。菊乃も同感だった。

閉館間際、彼女は《一日の仕事》という体験室へ入り、扉の故障で取り残された。救助AIへ連絡すると、到着は翌朝だという。飲食も温度も保証され、待っていれば危険はない。

ただ、部屋の中央に古い札が立っていた。

――帰宅するには、今日の仕事を終えてください。

掃除機を呼ぼうとすると、体験室は通信を切った。箒は重く、埃は逃げ、同じ場所を何度も掃いた。作業を終えた印は出ない。どこで十分と決めるかも自分だった。菊乃は、正解のない終了ほど不安なものはないと知った。

床を掃くと、埃の下から矢印が現れた。矢印の先に重い梯子があり、運んで棚へ立てると、上段に錆びた弁が見えた。弁を回すと水が流れ、汚れた布を洗えた。その布で窓を拭くと、最後の指示が読めた。

――次の人へ、分かったことを残す。

菊乃は紙に書こうとして手が止まった。効率が悪い。手は痛い。何度も失敗した。それなのに、部屋のどこを触ったか全部覚えていた。

《仕事は、世界に自分の手順を残すこと》

そう書くと、扉が開いた。

翌朝、学芸AIは告げた。

「扉は最初から施錠されていませんでした。救助を待つ選択も可能でした」

「じゃあ、だましたの?」

「いいえ。展示の説明を読んだのは、あなたです」

祖母に体験室の話をすると、「それで、待つ展示は分かった?」と聞かれた。菊乃は首を振った。分かったふりをせず、次に分かるまで覚えておくことにした。それも待つことの一種だと思えた。

菊乃は帰宅後、家の床を一度だけ自分で拭いた。清掃機の仕上がりよりむらがあり、家族に笑われた。

翌週、彼女は博物館へ戻り、体験室の札を磨いた。

「これは労働ではありません」とAIが注意した。

「知ってる。だから、やるかどうか私が決められる」

その日から展示には、菊乃の指紋が少しずつ増えていった。