勇者の拳を開く河原湯
戦勝祭の日、温泉宿《帰途亭》は町で一番暇だった。
皆が勇者を見に広場へ出ていたからだ。その勇者ローガン本人が、裏口から女将チセを訪ねた。
「右手が開かない」
彼の拳は固く握られ、爪が掌へ食い込んでいる。魔王を倒した瞬間から、存在しない剣の柄をつかみ続けているのだ。
「治癒院では、戦う者の勲章だと言われた」
「困ることは?」
「今日、娘が帰ってくる。十年ぶりに手をつなぐ約束をした」
チセは祝いの言葉を言わず、川沿いの河原湯へ案内した。底には、丸い石が一つだけ置かれている。
「拳の中へ、その石を入れてください」
「開かないと言った」
「では、握ったまま湯へ」
ローガンが腕を沈めると、温泉が拳の隙間へゆっくり入り込んだ。掌の古傷が白く浮かぶ。魔王の城で剣を奪われまいと、骨が折れても握り続けた手だった。
熱は傷を癒やすのではなく、指へ「もう剣はない」と伝える。外では祭りの太鼓が鳴ったが、ローガンの肩は戦の合図と勘違いして固くなった。
「ここでは勝たなくていいです」
チセがそう言うと、太鼓はただの祝いの音へ戻った。
チセは丸石を掌の下へ転がした。
「剣より弱いものを、落とさない程度に持って」
親指がわずかに離れた。次に人差し指。握り直そうとするたび、石の丸さが力を逃がす。落とした石は湯底へ沈み、誰も彼を責めない。チセが拾って、また掌の下へ置く。それを何度も繰り返した。
「魔王より難しいな」
「魔王は倒せます。力を抜くのは、倒せませんから」
ローガンは笑い、泣きそうな顔をした。
最後には、ローガン自身が石を放し、掌を上へ向けた。
湯上がり、右手は完全には開いていなかった。それでも小さな手を包めるほどの隙間がある。
夕方、祭りの人波の向こうで、チセは勇者が少女と手をつないで歩くのを見た。剣を持たない右手で。
夜、料金皿には英雄勲章ではなく、使い込まれた銀貨が置かれていた。脇に予約札が一枚。
『次は娘と来る。だが湯は、また一人ずつ頼む』
チセが札を胸にしまう。
広場の歓声が遠のいたころ、帰途亭の小さなベルが新しい客を告げた。