匿名車両は十七桁
自動車販売会社の走行データ提供会議で、雨宮那由は整備システムを保守する会社の若手担当として、匿名化済み車両情報を点検していた。買い手は自動車ローン会社。走行傾向から返済リスクを分析するという。
契約書では、個人を識別できない車種別統計八万台分を提供するとされ、対価は三億六千万円だった。
那由はデータ項目「DEVICE_ID」を見た。英数字十七桁。車台番号そのものだった。
営業部長は、所有者名がなければ匿名だと説明した。
車台番号は販売会社の顧客台帳と一対一で結びつく。買い手のローン会社も契約車両の車台番号を保有している。二つを照合すれば、急加速、深夜走行、通勤先、毎晩停まる住所まで顧客ごとに分かる。
那由は一件を地図へ表示した。販売会社社長の車だった。午前二時に本社を出て、毎週同じ住宅へ向かう。会議室の空気が変わった。
社長は私的な例を出すなと怒ったが、那由はデータの再識別性を示すためだと答えた。
さらに契約別紙には「高リスク運転者の金利見直し候補を毎月通知」とある。統計利用ではなく、個別のローン条件へ使う計画だった。確認欄には営業部長の電子署名がある。
営業部長は、車台番号を提供後に乱数化すると説明を変えた。
「提供前に匿名化すると契約書へ書いてあります」
那由は整備システムの安全確認印をケースへ戻した。保守会社の上司は追加契約が消えると顔をしかめたが、何も言わなかった。
ローン会社の試算表では、深夜走行が多い車両へ金利を〇・四パーセント上乗せし、病院付近へ頻繁に停まる車両を追加審査へ回す式があった。車台番号を消せば計算できない。那由は、匿名化されていないことが買い手の利益条件そのものだと指摘した。
ローン会社の担当者は、車台番号がなければ既存契約と照合できず、案件価値が半分になると口を滑らせた。匿名であることと、三億六千万円の値段は両立していなかった。
ローン会社の法務役員が契約書を閉じた。十七桁の匿名車両は、所有者の家まで走ったまま三億六千万円の決裁線を越えられなかった。