千年目の初恋
月岡郁は、仮想美術館の学芸員として千年を生きていた。
人格を安定させるため、百年ごとに記憶を整理した。名前を忘れた友人、飽きた趣味、同じ景色を見た回数。不要と判定されたものを消すたび、郁は若返った気分になった。
ある日、九十一歳でアップロードされた男が美術館へ来た。
男は皺も曲がった背中もそのまま再現し、歩くたびに杖をついた。若い姿を選べるのに、なぜと郁が訊くと、男は言った。
「この体で見たものを、この顔で覚えていたい」
彼は絵の題名をすぐ忘れ、同じ質問を何度もした。郁は最初、非効率だと思った。だが男は同じ絵を毎回初めて見るように驚いた。千年前から展示され、郁には壁紙同然だった海の絵の前で、三十分も泣いた。
二人は毎日会うようになった。
男は郁の名前も時々忘れた。それでも、彼女を見ると必ず帽子を取った。
「大切な人だった気がします」
郁は、記憶が愛を作るのだと思っていた。けれど男の態度は、記憶が抜けたあとにも残った。
運営者は男の認知劣化を止めるため、毎週の完全バックアップを勧めた。郁も賛成した。昨日の彼を復元すれば、忘れられずに済む。
男は拒んだ。
「昨日の私に戻ったら、今日あなたを好きになった分が消える」
代わりに二人は、三十年で終わる小さな世界を借りた。春から始まり、年を取り、最後に冬が来る設定だった。郁は初めて記憶整理を停止した。忘れたくない喜びだけでなく、喧嘩も倦怠も、介護の疲れも残した。
三十年目、男は郁の名前を完全に忘れた。
雪の庭で、彼は帽子を取った。
「初めまして。あなたは、大切な人だった気がします」
郁は笑った。
「これから大切になる人です」
世界の終了時刻が近づくと、雪は深くなり、保存確認が表示された。郁は二人のコピーを作ることも、自分だけ戻ることもできた。
彼女は《保存しない》を選んだ。
千年生きた郁にとって、初めての恋は、永遠に残した恋ではなかった。
一度しか失えないまま、最後まで一緒にいた恋だった。