午前三時十二分
奈良原つぐみが店を辞めた翌朝、パンはまだ普通に膨らんだ。
だから社長の狩野康文は得意だった。
「ほら見ろ。毎朝三時に来て生地を触っていたが、機械の設定で同じものができる。あれこそ給料泥棒だ」
私は製造補助として、その言葉を聞いていた。
つぐみさんはミキサーの横で何もしない時間が長かった。窓を開けたり、粉袋の口を結び直したり、生地へ耳を近づけたりする。狩野社長は、その姿を監視カメラの静止画にして解雇理由へ添えた。
二日目、食パンの角が丸くなった。
三日目、クロワッサンの層がくっついた。
雨が続いた五日目、全粒粉の生地は発酵槽で酸っぱく崩れた。
設定温度は同じだった。けれど新しい小麦は水を吸いやすく、梅雨の湿気まで抱え込んでいた。つぐみさんは毎朝、生地の音と指への戻り方で水を減らしていたのだ。
狩野社長は香料を足し、焼き色を濃くした。苦情は増え、駅売店との契約が切れた。大型オーブンは動いているのに、棚へ出せるパンがなくなった。
半年後、私は休日に路地裏の小さな店へ行った。つぐみさんが移った店だった。午前三時十二分、彼女は生地を押し、窓を二センチ開けた。
「今日は雨が遅いから、あと四分」
本当に四分後、雨が屋根を叩いた。
その店のパンは、国際製パン大会の国内予選へ進んだ。決勝の課題は、当日配られる粉で同じ食パンを三回焼くこと。つぐみさんは機械の表示を一度も変えず、水だけを数滴ずつ調整した。三本は寸分違わず膨らみ、最高賞を取った。
表彰式の直後、空港運営会社が全国ラウンジへの供給契約を提示した。
狩野社長も会場に現れた。
「設備が小さすぎる。製造はうちが引き受ける。奈良原は監修で戻せばいい」
担当者は旧店の品質事故一覧を見せ、契約書をつぐみさんへ向けた。
「必要なのは大きなオーブンではありません。午前三時十二分に生地の声を聞ける人です」
つぐみさんが署名すると、旧店から撤去された駅売店の全区画が、新しい店の販売場所として追加された。