午後四時の空欄
槙野毬奈の予定表には、白い場所がほとんどなかった。
フリーランスの翻訳を始めて一年。仕事が途切れる怖さから、打ち合わせ、作業、請求書作成、勉強時間まで三十分単位で埋めていた。空欄があると、選ばれていない人のカレンダーに見えた。
木曜の午後、取引先から追加の依頼が届いた。
「明日午前までに、こちらもお願いできますか」
分量は短い。今夜二時間延ばせば間に合う。毬奈はすぐ「承知しました」と入力した。いつもなら、空いていなくても空ける。食事や入浴や睡眠は、予定として数えなかった。
送信前に、カレンダーを開く。
十九時から二十一時は別件の見直し。二十一時から二十二時は翌週分の用語集。二十二時以降だけが白い。その白を見た途端、毬奈は「できる」と判断しそうになった。
けれど昨夜も、白い時間へ仕事を押し込んだ。今朝、目覚ましを三度止め、コーヒーの粉を床にこぼした。体が遅れているのに、予定表だけが先へ進んでいた。
毬奈は返信の「承知しました」を消した。
断る文面を十五分考えた。「力不足で」「あいにく立て込んでおり」「可能であれば来週」など、相手に嫌われない正解を探す。どれも言い訳に見えた。
最終的に送ったのは二行だった。
「明日午前までの対応は難しいです。月曜納品であればお受けできます」
送信後、胸の奥が落ち着かない。返信が来る前に、別の仕事を探すサイトを開きたくなる。断った一件で、今後すべて失うような気がした。
毬奈はカレンダーの二十二時から二十三時を選択した。
そこへ仕事を入れず、「空欄」と入力する。予定名としてはおかしい。それでも保存した。白かった枠に、薄い文字で空欄と表示される。
取引先からは十分後、「月曜でお願いします」と返ってきた。安心はしたが、それで断ることが正しかったと証明されたわけではない。次は断られるかもしれない。
毬奈はその返信に、すぐ返事をしなかった。午後四時の作業を終えてから、短く承諾を送る。
夜、二十二時になっても予定表の枠は空欄のままだった。毬奈はそこを埋めず、電気を消した。