古い契約書を捨てない

シュレッダーが低く唸っていた。

「もう不要ですよね。新契約に切り替わりますから」

ホテル運営会社の法務部長が、黄ばんだ契約書を差し出す。

九条沙耶は、その紙束が細断される光景を知っていた。一度目の人生で、老舗ホテル《オルフェ》は改装資金を借りるため、新しい運営契約へ切り替えた。半年後、売上条件未達を理由に銀行が期限前返済を要求。旧契約にあった「災害後三年間は返済猶予」という条項を証明できず、土地も建物も差し押さえられた。法務部長は競売を仕組んだファンドへ転職し、ホテルは百年目の春を迎えず破綻した。

最後の宿泊客を見送った沙耶は、契約切替日の朝へ戻った。

黄ばんだ頁には、祖父と当時の支店長の署名が並ぶ。古い紙は時代遅れなのではない。水害の泥をかき出し、営業を再開した人々が、次の災害でも宿を残すために結んだ約束だった。

法務部長が黄ばんだ紙をシュレッダーへ寄せる。

「もう不要ですよね」

沙耶は紙束を取り返した。

「必要です。原本は金庫へ戻します」

「新契約と矛盾します。保存義務もありません」

「だから捨てさせたいのね」

沙耶は旧契約の第九条を開く。三年前の水害は、正式に災害指定されている。返済猶予はまだ十一か月残っていた。さらに新契約の別紙には、その権利を放棄する一文が小さく追加されている。

法務部長が声を荒らげた。

「改装融資がなくなれば、冬を越せません」

「権利を捨てて借りれば、春を迎えられない」

沙耶は新契約への署名を拒否し、旧契約の写しを銀行本部と監査役へ送った。ファンドとのメールも保全する。法務部長の送信箱には、競売後の就任条件まで残っていた。

午前十時。前の人生では銀行から担保権実行の予告が届いた時刻。

フロントの端末が鳴る。

『災害特約を再確認。返済猶予を継続し、改装費は別枠で協議します』

同時に、予約管理画面へ来春の団体予約が入った。

ロビーの古いシャンデリアが点灯する。清掃主任が見上げて笑った。

「社長、百年目の記念旗、注文してもいいですか」

沙耶は黄ばんだ契約書を胸に抱えた。

「今度こそ、春に間に合わせて」