右側だけの階段

「階段は右側をお使いください」

崖に張りつく塔宿〈風梯子〉では、主人イサルドが一日中、階段を上り下りしている。手すりを磨き、段差へ白線を引き、荷物の重い客には滑車を貸す。魔術師の宿なのに、本人は浮遊魔法すら使わない。杖を忘れた客には貸し出し用があるのに、主人用の杖だけはどこにもない。毎日千段を歩くのが健康法だと本人は言った。

曲芸師のタミアは、最上階の部屋から夜景を眺めていた。翌日の公演で空中綱渡りをするため、風向きと塔の揺れを確かめていたのだ。すると階段の左側だけ、暗闇へ沈み始めた。

現れたのは重力獣グロム。城壁を地面へ押し潰す異界生物で、塔の地下に眠る魔力核を狙っていた。四本の脚を踏みしめるたび、床が壁へ、壁が天井へ変わる。宿泊客は眠ったままベッドごと傾いた。窓の外では雲が縦に落ち、崖下の町まで塔へ引き寄せられ始める。

イサルドは踊り場へ来ると、白線の欠けた部分をチョークで一本引き足した。

世界が傾いた。

ただし右側の階段だけは動かない。重力獣は左へ踏み出し、そのまま横向きの奈落へ落ち始めた。咆哮も巨体も引力も、階段の裏へ吸い込まれ、イサルドがチョークを折ると奈落は一本の黒線になった。町は地面へ戻り、雲も何事もなかったように横へ流れた。タミアの髪飾りだけが天井へ落ちかけたが、イサルドが片手で受け止め、何事もなかったように返した。

タミアだけが手すりにぶら下がりながら見た。黒線の周囲に、大魔法使い〈天地替え〉の幾何陣が広がっていたのを。山脈を裏返して魔王軍を止めた術だ。

「ご主人、塔ごと世界を回したの?」

「左は塗装中です」

イサルドは黒線を雑巾で消し、傾いた家具を指先で元へ戻した。重力獣の爪痕には新しい白線を塗る。客たちは少し寝相が悪かったと思うだけで朝まで眠った。

翌朝、タミアは試しに左側へ足を出しかけた。段の奥から、遠ざかり続ける獣の声がかすかに響く。

イサルドは箒を手に階下から上がってきて、いつもの事務的な口調で言った。

「階段は右側をお使いください」