名を削る通行印

ファリドの通行印からは、持ち主の名だけが削られていた。

真鍮板には『北道監察官、軍営を昼夜問わず通行すべし』と刻まれている。その下にあった名は鑢で消え、浅い傷になっていた。

砂海の帝国では、役人が死ぬと名だけを削る。官職は皇帝のもので、次の男へ移るからだ。ファリドが殺した監察官は、まだ死んだと知られていない。

彼は黒い外套を着て、敵の補給陣へ入った。目的地は包囲されたナジュム砦。伝える命令は『今夜、井戸へ毒を入れたふりをし、敵を退かせよ』。毒はない。敵が信じればよい。

第一門では、兵が真鍮板を見ただけで道を開けた。第二門では書記が灯火へかざした。

「名がない」

「前任者が死んだ」

「後任の名は」

「皇帝が決める。お前が先に知りたいなら、皇帝へ聞け」

書記は口を閉じた。官僚は無名の権威ほど恐れる。

最後の門に、老いた関令ムルサがいた。彼は印を受け取り、削り跡へ爪を走らせた。

「新しい傷だ。前任者は昨日ここを通った」

「なら今ごろ死んでいる」

「どこで」

「その問いを記録するか」

ファリドは腰の記録袋へ手を置いた。中は空だが、監察官は質問した者の名を書き、後日、徴税吏を送ると噂されている。

ムルサは怯えなかった。

「前任者には左頬に疱瘡痕があった。お前にはない」

「だから名を削った。顔まで同じなら、削る必要がない」

一息の沈黙。周囲の兵は意味を考え、誰も答えにたどり着かない。役目が人より先に立つ国では、理屈より印が強い。

ムルサはなおも真鍮板を握った。

「ナジュム砦は敵だ。監察官が何を監察する」

「落ちた後の税だ。お前たちは明朝には入るのだろう」

敵の勝利を認める言葉が、最後の錠を外した。

門が開く。ファリドは印を返され、振り向かず砂道を進んだ。

ナジュム砦へ着くと、守将は命令を聞き、空の井戸桶へ黒布を巻かせた。夜風が敵陣へ吹いている。

城壁の上に『毒井』を示す黄色い旗が上がった。

敵の給水隊が止まり、包囲陣全体へ後退の命令が走った。