名前を伸ばす弦
二十六歳の川名リンは、名前を説明するのが苦手だった。戸籍では「琳」と書く。台湾出身の母が、磨かれた玉を表す字だと教えてくれた。けれど学校で何度も読み間違えられ、就職してからは名刺にもメールにも片仮名のリンを使った。
同僚が「珍しい名前だね」と言えば、「呼びやすいほうでいいです」と笑った。母は何も責めなかったが、誕生日の封筒には毎年、墨で大きく「琳」と書いた。リンはその封筒だけ捨てられず、引き出しの奥へ重ねていた。来週の社外研修では、百人分の名札が作られる。申込フォームへ名前を入力するときも、琳の字を出してから片仮名へ戻した。読み間違えられる前に簡単にしておけば、訂正する勇気も要らない。その代わり、母から受け取った字は公の場所から少しずつ消えた。
休日、中華街の外れで、周防春蘭が二胡を弾いていた。一本の音が、人の声のように細く揺れる。高くなると問いかけのようで、低く戻ると遠くから名前を呼ばれたようだった。リンは人混みの端で、呼ばれてもいないのに振り向いた。母の声ではなかったが、忘れていた字の輪郭が胸の内側へ戻った。リンは母の鼻歌に似ていると思い、足を止めた。
春蘭が弓を浮かせて尋ねた。
「名前は、何秒まで伸ばせますか」
「名前は伸ばすものじゃないでしょう」
「次の一弓が終わるまで、自分の名前を言ってみて」
弓が弦へ触れ、低い音が始まった。リンは小さく「りん」と言った。すぐ終わり、音だけが続く。春蘭はやり直しを求めず、長い響きを最後まで運んだ。
リンはもう一度、今度は誰にも頼まれていないのに「かわな、りん」と音へ重ねた。母が呼ぶときの抑揚になった。
翌日、社外研修の受付で名札を渡された。印字は〈川名リン〉。いつもならそのまま胸につける。受付係が「表記はこちらでよろしいですか」と形式的に聞いた。
リンは引き出しの封筒を思い出した。後ろには参加者が並んでいる。それでも名札を返し、ペンを借りた。
「漢字に直してもらえますか。川名琳です。王へんに、林と書きます」