名義だけの女将
長尾家の旅館では、翠弦が誰より早く起き、誰より遅く眠った。
予約管理、朝食、客室清掃、送迎、経理。だが客の前に出るのは義母の照代だった。
「女将は家の顔よ。嫁は裏で働けばいいの」
義父の修二は売上を受け取り、夫の禎史は母の写真ばかりを宣伝に載せた。
翠弦が給与を求めると、禎史は言った。
「母さんだって無給でやってきた。家族を商売人みたいに扱うな」
旅館の改装費一千二百万円は、翠弦が祖父から受け取った資金だった。禎史は「必ず返す」と公正証書を作りながら、返済を一度もしなかった。
新館の開業日、照代は翠弦へ古い作務衣を渡した。
「今日は取材が来るから、あなたは洗い場から出ないで」
玄関には報道陣より先に、翠弦の弁護士と執行官が現れた。
照代は客へ聞こえないよう声を落とす。
「家族の恥を開業日に持ち込むなんて!」
翠弦は帳場へ、三年間の勤務記録を置いた。予約システムの操作履歴、深夜の電話記録、照代が毎日送った業務命令、禎史の「賃金を払うと母さんの立場がない」というメッセージ。旅館は翠弦を従業員として補助金申請に記載しながら、給与を支払っていなかった。
弁護士が告げる。
「貸付金一千二百万円は、公正証書に基づき直ちに強制執行します。加えて未払い賃金六百九十万円、休業損害、三名の共同した人格侵害への慰謝料一千万円。請求総額は三千五百万円です」
修二が帳場を叩いた。
「旅館を売れば済む話だ」
「売却はできません」
執行官が登記簿を示した。
「土地建物に差押登記を入れます」
禎史は翠弦の腕をつかもうとした。
「お前が抜けたら、予約も会計も誰がやるんだ」
その瞬間、ロビーの端末が一斉に鳴った。主要予約サイトから、管理責任者の退職と差押えを理由に、新規受付を停止したという通知だった。
照代の背後では、満室を示していた電光表示が、上から順に灰色へ変わっていく。
翠弦は女将の名札ではなく、執行済みの公正証書を帳場へ置いた。